○新王国時代|帝国の拡張と神権・建築美術が極大化した時代
新王国は、第18王朝から第20王朝にあたり、帝国としての領土を最大に広げ、国際的な影響力を持った古代エジプトの中でも最も繁栄した時代で、473年間続きました。
他の時代に比べ、王権と神権が強く結びつき、中央集権が確立し、戦争、外交、交易が活発で、軍事力・経済力・宗教権威のバランスが高いレベルで維持されたことが特徴で、神殿や王墓など壮大な建築が多く築かれ、芸術も華やかに発展しています。
写真は新王国時代の神殿復元模型で、神殿が〈祈りの場〉であると同時に、ファラオが神と結びつき王権を更新する〈政治装置〉だったことを示しています。
新王国美術は、帝国の軍事・外交・宗教権威を、カルナック神殿に代表される神殿建築と王像・レリーフの巨大化によって「国家の視覚言語」として定着させた造形体系です。
○新王国 第18王朝|帝国の成立と信仰・芸術が最も揺れ動いた時代
BC1550年 ~ BC1292年 首都:テーベ(現在のルクソール)
第18王朝の美術は、帝国の成立と宗教改革(アマルナ)を背景に、伝統様式と革新表現がせめぎ合った「振れ幅の最大期」です。
この第18王朝は、戦争と平和、信仰と異端、芸術と権力が入り混じる帝国の時代であり、258年間続きました。次の第19王朝と並んで、古代エジプトの中でも特に変化の大きい時代として知られています。
紀元前1550年頃、イアフメス1世がヒクソスを追い払い、エジプトを再び一つにまとめたことで、第18王朝が始まりました。彼は戦いに明け暮れ、デルタ地帯を奪還し、南のヌビアを征服してエジプトの領土を拡大しました。
しかし、その功績は戦だけにとどまらず、神々への信仰を回復させるために、テーベの地にアメン神殿の整備を始めました。これが後のカルナック神殿の礎となります。
後を継いだ息子のトトメス1世は、さらに国境を押し広げ、軍を現代のイラク北部にあたるユーフラテス川まで進めました。その偉業を称えるように、カルナック神殿の中庭には高さ約30メートルのオベリスクが建てられ、空を突く石の針には王の名が刻まれ、永遠の勝利を語り続けています。
また彼の時代に、王の墓の所在を秘匿するため、テーベ西岸の王家の谷に初めて岩窟墓が建設されたと考えられています。
写真のブルーの皿は、この時期に流行したエジプト創成神話で語られる「ヌン(原初の海)」を表したもの。ブルーは装飾ではなく、原初の水を呼び込むための色そのものが機能する表現でした。当時の人々はヌンが宿す潜在的な創造の力をこの皿を通じて、呪術的に宿そうとしたのかもしれません。
トトメス1世の死後、後を継いだのは息子のトトメス2世でした。在位期間は短かったものの、安定した統治を維持し、王としての責務を果たしました。
彼の死後、王位は息子のトトメス3世に継承されることになりましたが、まだ幼かったため、トトメス2世の王妃であり、トトメス1世の王女でもあるハトシェプストが摂政として政務を担うことになり、やがて彼女は、単なる摂政にとどまらず、自ら「ファラオ」として正式に即位しました。
これは女性としては極めて異例のことであり、彼女は自身の王権を正当化するために、アメン神による神託を強調し、神殿建築や碑文を通じてその正統性を示しました。
彼女は男性の衣装をまとい、あごひげの偽ひげをつけて王として振る舞い、武力よりも交易と建築に力を注ぎました。現在もテーベ西岸のデイル・エル・バハリの断崖に抱かれるように、彼女のための葬祭殿が当時の姿を留めており、テラス状に広がる構造や列柱が落とす影が美しい景観を形作っており、壁面には、アフリカ東岸のプント国(正確な位置は不明)への交易遠征を描いた生き生きとした壁画が残されています。
しかし、彼女の死後に成長し、後を継いだトトメス3世は、彼女の彫像を破壊し、名前も削り取り、痕跡を消し去ろうとしました。これは、女性ファラオという異例の統治を否定し、改めて自身の王位の正統性を強調するために、彼女の治世を公式記録から抹消しようとしたものと考えられています。
写真の遺物は彩色された墓壁画です。うっすらと赤い線が残っているのは下描きのグリッド線であり、職人の補助であると同時に、人体比率を共有することで様式を統一する、帝国的な制作システムの痕跡でもありました。
彼は「古代エジプトのナポレオン」とも呼ばれ、統治期間の多くを遠征に費やし、シリア・パレスチナからヌビアに至る広大な領土を征服し、古代エジプト史上最大の版図を築き上げました。また彼の治世下でカルナック神殿はさらに拡張され、巨大な列柱室が建設されました。無数の石柱が林立するその空間は、王の権威を今に伝えています。
その後、数代の王を経て王位に就いたのがアメンホテプ3世です。
彼は戦争よりも外交と贅沢を重んじた王でした。メソポタミア、アナトリア、バビロニアの王たちと交流し、彼らの王女を妃として迎え入れることで平和を築きました。カルナック神殿やルクソール神殿には新たな門が加えられ、巨大な王像が並びました。中でも、西岸の平原に座るメムノンの巨像は、今も訪れる人々を見下ろしています。
写真の遺物は、ファイアンビーズ製の襟飾りです。エリート層の男女に重用され、死後にミイラとなった遺体の包帯に挟みこまれました。
しかし、その息子アメンホテプ4世(アクエンアテン)は、父とはまったく異なる道を歩みました。
彼は多神教を否定し、唯一の太陽神「アテン」だけを信仰するという思い切った宗教改革を進めます。さらに都をテーベからアマルナ(現在のテル・エル・アマルナ)へ移し、自らの信仰のための新しい都市を築きました。
この時代、芸術も大きく変わり、従来の理想化された王の姿ではなく、長い顔やふくよかな体、家族とくつろぐ自然な姿など、写実的な表現が多く見られるようになります。しかしこの改革は、アメン神官団などの既得権を持つ勢力との対立を招き、庶民にも理解されにくい急な変化だったため、アクエンアテンの死後すぐに否定されてしまいました。神の体系が変わると、王の身体表現も変わる――アマルナ美術はそのことを最も露骨に示す事例です。
写真の遺物は、アクエンアテンの正妃で第18王朝を代表するヒロイン、ネフェルティティのレリーフです。彼女の姿はベルリン国立博物館にある古代エジプトを代表する肖像彫刻「ネフェルティティの胸像」とよく似ています。
その後、短期間に数人の王が即位と退位を繰り返した後、王位についたのが、日本でも最も有名なファラオの一人である少年王ツタンカーメンです。
彼は伝統のアメン信仰を復活させ、都も再びテーベに戻しましたが、わずか10年ほどの短命に終わりました。彼の墓は急ごしらえの小さめの墓(他人の墓を転用した可能性もあります)でしたが、奇跡的に略奪を免れ、1922年にイギリス人ハワード・カーター率いる発掘隊によって発見されました。黄金のマスクや黄金の棺、無数の装飾品が詰まった墓は、死者の旅路を守る護符や神聖な象徴で満たされており、その発見は世界中に古代エジプトの神秘を知らしめる出来事となりました。
彼の副葬品は「豪華さ」以上に、死後の再生を保証する「象徴の体系(護符・神像・図像)」として読むことができます。
ツタンカーメンの死後は、宰相のアイ、そして軍司令官出身のホルエムヘブが相次いで王位を継ぎ、アマルナ時代の混乱を収めたうえで、再び伝統と秩序の回復に努めました。
写真の遺物は、新王国時代の青色彩色土器です。主としてコバルトやミョウバンから採取される顔料使用することにより、パステルブルーの彩色を生み出しました。新王国時代のブルーは、宝石ラピスラズリを想起させる色として、王侯的な贅沢と聖性を同時に演出しました。
このように、第18王朝は258年間にわたって繁栄し、多様な変化と発展を遂げた後、次の第19王朝へと続いていきます。
参考資料:ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト 図録 2025
第18王朝 ファラオ年表(クリックで開く)
| ファラオ名 | 在位期間(BC) | 主な功績・特徴 |
|---|---|---|
| イアフメス1世 | BC1550年頃〜BC1525年頃 | ヒクソスを追放しエジプトを再統一。第18王朝を創始。 |
| アメンホテプ1世 | BC1525年頃〜BC1504年頃 | 都市整備と宗教政策を推進。死後は守護神として信仰。 |
| トトメス1世 | BC1504年頃〜BC1492年頃 | ユーフラテス川まで遠征。王家の谷の岩窟墓を使用開始。 |
| ハトシェプスト | BC1479年頃〜BC1458年頃 | 女性ファラオ。デイル・エル・バハリ葬祭殿、プント交易。 |
| トトメス3世 | BC1479年頃〜BC1425年頃 | 最大版図を築いた「古代エジプトのナポレオン」。 |
| アメンホテプ3世 | BC1391年頃〜BC1353年頃 | 外交と建築の黄金期。メムノンの巨像を建立。 |
| アクエンアテン | BC1353年頃〜BC1336年頃 | アテン信仰を推進。アマルナ美術を生む宗教改革。 |
| ツタンカーメン | BC1332年頃〜BC1323年頃 | 伝統信仰を復活。墓の発見により現代で最も有名に。 |
| ホルエムヘブ | BC1319年頃〜BC1292年頃 | 王統を整理し第19王朝へ移行。 |
※在位年は推定。アマルナ期の王統には不明点が多く、学説差があります。


