特別展「古代DNA 日本人の来た道」② 日本人の顔

日本人の“顔”は、どのように形づくられてきたのでしょうか。
日本列島で暮らした人々は、時代や地域によって異なる環境に適応しながら生活を営んできました。近年では、各時代の頭蓋骨をもとに、現代の技術を用いて復元された“日本人の顔”を通して、その変遷を視覚的にたどることができます。

 

特別展「古代DNA 日本人の来た道」では、石垣島・白保竿根田原洞穴遺跡の旧石器時代の男性、北海道・船泊遺跡の縄文時代後期の女性、鳥取県・青谷上寺地遺跡の弥生時代後期の男性、そして東京都の発昌寺跡遺跡、池之端七軒町遺跡の江戸時代の武家と町人の男性と女性――これらの復元顔が紹介されています。それぞれの顔に刻まれた歴史と、発見された遺跡の背景にも注目してみましょう。

 

【石垣島・白保竿根田原洞穴遺跡の旧石器時代の男性】
沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡は、約2万年前の人骨が発見された日本でも最古級の洞窟遺跡です。この男性の頭蓋骨から復元された顔は、濃い眉、力強い顎、深い眼差しが印象的で、厳しい自然の中で狩猟採集を行っていたたくましさが感じられます。その風貌からは、日本人というよりも東南アジア系の人々に近い特徴を感じさせます。サンゴ礁に囲まれた島で生きた彼らは、魚介類や山の幸を糧に、海や森と共に暮らしていたと考えられます。DNA解析からは、本土の縄文人とは異なる系統が示唆されており、現代の琉球諸島の人々のルーツを探る上でも重要な資料となっています。

 

【北海道・船泊遺跡の縄文時代後期の女性】
北海道の最北端、礼文島にある船泊遺跡は、海に面した縄文時代後期の集落跡です。貝塚や漁具が多く発見され、北の海に支えられた豊かな漁撈文化を物語っています。約3000年前の女性の顔は、丸みを帯びた穏やかな表情が特徴で、海とともに生きた当時の人々の落ち着いた生活ぶりを感じさせます。寒冷地であった北海道でも、縄文文化は独自の進化を遂げ、豊かな精神文化を育んでいました。

 

 

【鳥取県・青谷上寺地遺跡の弥生時代後期の男性】
鳥取県の青谷上寺地遺跡は、弥生時代後期の大規模集落跡で、国内でも有数の保存状態を誇る人骨が多数出土しています。生活道具や住居跡だけでなく、争いの痕跡も確認され、当時の社会の複雑さを伝えています。特筆すべきは、約2000年前の人骨から脳組織が発見されたことで、通常は残らない軟組織が土壌条件により奇跡的に保存されていました。この男性の顔は、やや面長で引き締まった顎、意志の強い眼差しが印象的で、稲作社会の中で土地を守り、共同体を支えた男性像が浮かび上がります。

 

【江戸時代の武家と町人】
江戸時代の復元顔は、武家の女性が東京都文京区の発昌寺跡遺跡から、武家の男性、町人の男性と女性は、東京都台東区の池之端七軒町遺跡から出土した頭蓋骨をもとに復元されています。

武家の女性の顔は、きりりとした輪郭の中に上品さが漂い、武家社会に生きた女性らしい気高さと内に秘めた強さが感じられます。武家の男性は引き締まった表情と誇り高い眼差しが印象的で、いずれも面長であごの小さい特徴が際立っています。

 

 

 

一方、町人の女性の顔は、ふっくらとした頬に優しい目元が特徴で、江戸の町を生き生きと歩く姿が想像できます。町人の男性もやや柔らかな表情で、人懐っこさがにじみ出ています。現代の日本人にも通じる親しみやすさを感じさせ、長い歴史の中でも顔の特徴の一部が受け継がれていることに気づかされます。

 

 

このように、各時代の“日本人の顔”を並べてみると、同じ列島に暮らしながらも、時代や地域によって多様な顔立ちがあったことがわかります。遠い祖先たちは、それぞれの社会や環境の中で懸命に生き、今に続く私たちのルーツを築いてきました。復元された顔は、単なる骨の再現ではなく、彼らが確かに生き、愛し、笑い、苦しんだ“人間”としての証です。

遠い過去の日本人の顔に、ぜひ目を向け、その物語に思いを馳せてみてください。

( 特別展「古代DNA 日本人の来た道」 了 )


国立科学博物館 古代DNA展

音声ガイド:あり(配信版もあり有)
作品撮影:すべての作品で可能
図録:2500円
会期:2025年3月15日(土) ~ 2025年6月15日(日)
開館時間:9時〜17時(入場は16時30分まで)
ただし毎週土曜日、は19時まで延長(入場は18時30分まで)
休館日:月曜日