先に紹介した第18王朝が帝国拡張と文化の黄金期を築いた王朝ならば、第19王朝は軍事と巨大建築で王権の絶頂を誇った王朝、そして第20王朝は防衛と内乱の中で衰退と終末を迎えた王朝です。
○新王国 第19王朝
○新王国 第19王朝
BC1292年頃 〜 BC1189年頃の103年間。首都はテーベ、ペル・ラムセス。
第19王朝は、BC1292年頃、ラムセス1世の即位によって始まります。
短命に終わったラムセス1世の後を継いだのが、息子のセティ1世です。セティ1世は軍事的にも宗教的にも偉業を成し遂げたファラオでした。彼はシリアやパレスチナ方面へ遠征し、ヒッタイト勢力(現トルコのアナトリア半島の北中部)と争いながらもエジプトの支配権を確保しました。また、アビドスに壮麗な「セティ1世葬祭殿(セティ1世神殿)」を築きました。この神殿は、荘厳な列柱廊や彩色豊かな浮彫が今なお残る傑作で、神々への奉納とともに自身の偉業を後世に伝える記念碑でした。さらに、内部に刻まれた「アビドス王名表」は、失われた歴代ファラオの名を今に伝える貴重な史料としても知られています。
写真の石碑は「セティ1世の境界碑」。本来は二つの土地の境界を定めるためのもので田畑等に設置されていました。ファラオの姿を見ることがなかった庶民にとって身近にファラオを感じることができたのはこのような石碑あったと考えられ、当時の民間信仰を伺い知ることができます。
セティ1世のもう一つの偉業が、王家の谷に築いた自身の墓(KV17)です。この墓は、王家の谷で最もその全長が長く、かつ最も精緻に装飾された墓とされています。内部には「アムドゥアト(冥界の書)」など、死後の旅を描く色鮮やかなレリーフが続き、当時の宗教観と芸術の粋が集約されています。
セティ1世の後を継いだのが、古代エジプト史上最も有名なファラオの一人にして最盛期のファラオ、ラムセス2世です。「偉大なるラムセス」と称される彼は、66年間にわたり治世を続け、エジプトを最盛期に導きました。元々第18王朝から王権の中心はテーベに置かれていましたが、ラムセス2世は即位後間もない紀元前1270年代頃、アジア方面への軍事行動と貿易の利便性を重視し、下エジプト、ナイルデルタ東部のペル・ラムセスに遷都します。ペル・ラムセスは、かつてヒクソスの都アヴァリス近郊の地を大規模に再開発して築かれた巨大都市で、「ラムセスの家」を意味します。運河と支流が交差し、軍事・外交の拠点としても優れ、王宮や武器工場、港湾施設、壮麗な神殿群が整備されました。ここからラムセス2世はシリア・パレスチナ遠征やヒッタイトとの外交を展開し、エジプトの威光を近隣世界に知らしめました。
一方で、宗教的中心は変わらずテーベのカルナック神殿とルクソール神殿に据えられ、エジプトは実務と宗教の二重首都体制となります。ラムセス2世はカルナック神殿やルクソール神殿の拡張にも力を注ぎ、数々のモニュメントを残しました。
カルナック神殿は主神アメンを祀る古代エジプト最大級の神殿複合体で、膨大な石柱が林立する大列柱室や巨大な塔門群、聖池などが連なり、数多くのファラオたちの増築が何世代にもわたって続けられました。
ルクソール神殿はカルナック神殿から約2km南、ナイル川岸に建てられ、アメンホテプ3世やラムセス2世らによって完成・拡張されました。両神殿はスフィンクス参道で結ばれ、王の即位や国家祭祀「オペト祭」など盛大な行列が行われ、王権と神権が一体となるエジプト精神の象徴となりました。
現シリア領で起こったヒッタイトとの「カデシュの戦い」では軍事的勝利には至らずとも、世界最古の国際平和条約が結ばれました。ラムセス2世はこの和解を、自らの勝利として神殿の壁に描かせ、ファラオの威厳を後世に誇示しました。
写真の石碑は、ラムセス2世がエジプト南部のヌビア地域(現スーダン)に建立した神殿にて発見されました。
彼の業績の中でも最も象徴的なのが、アスワン近郊の岩山に築かれた「アブ・シンベル神殿」です。高さ20メートルを超える自らの巨像4体が正面に並び、訪れる者を圧倒します。年に2度、太陽光が神殿内部の至聖所に届き、神像を照らすよう設計され、ファラオの神格化を象徴しました。この神殿は20世紀、アスワン・ハイ・ダムの建設により水没の危機に瀕しましたが、1964年から1968年にかけて国際協力で解体・移設され、現在の高台に再建されています。石材を一つ一つ切り出し、元の位置関係を正確に再構築する途方もない作業は、世界遺産保存の象徴となりました。
死後、彼は「王家の谷」の墓(KV7)に葬られました。ここの墓も壮麗に造られましたが、後の洪水や盗掘で甚大な被害を受け、内部の壁面装飾はほとんど失われています。
両ファラオのミイラは、1881年、デイル・エル・バハリの隠し墓(DB320)から共に発見され、現在もエジプト国立文明博物館で眠っています。その状態は極めて良好であり、セティ1世のミイラは穏やかな顔立ちと深いまなざしをたたえ、死してなおファラオの威厳を伝えています。ラムセス2世のミイラもまた、頬の輪郭や高い鼻、堂々とした横顔がそのまま残され、死後3000年を超えた今なお「ファラオの顔」として私たちに語りかけてきます。まさに古代エジプトのミイラ化技術の極みと言えるでしょう。
写真の像はそのファラオと対極にいた庶民が持っていた「女性の祖先胸像」です。上記で紹介した神殿等に信仰の対象が祭られることも多かったと思われますが、このように作品のように自宅で礼拝するためのものも製作されていました。
しかし、第19王朝の終焉は、王位継承の混乱や政治の不安定さによって訪れました。ラムセス2世の死後、彼の後継者たちは短命なファラオが続き、王位継承を巡る争いが激化しました。メルエンプタハの死後には、アメンメスとセティ2世が対立し、さらに宰相ベイの台頭や、王妃タウセルトが実権を握るなど、王権は急速に弱体化していきます。こうした内部混乱は国家の統治機構を麻痺させ、次第に民衆の不満も高まる中で、ついには第19王朝は終焉を迎え、新たにセトナクトによる第20王朝が興ることとなったのです。
○新王国 第20王朝
BC1189年頃 〜 BC1077年頃の112年間。首都はテーベ、ペル・ラムセス。
その後を継いだのが第20王朝です。この王朝で最も名を残した王がラムセス3世です。「最後の偉大なファラオ」と称される彼は、「海の民」と呼ばれる謎の集団の侵入を撃退し、エジプトを防衛しました。
海の民とは、紀元前12世紀頃に地中海東部で猛威を振るった諸民族の総称です。ギリシャ、アナトリア、小アジア沿岸やエーゲ海の島々から流入し、ヒッタイトやミケーネ文明など多くの古代国家を滅ぼしました。エジプトにも度重なる侵攻を仕掛けましたが、ラムセス3世は巧みな戦略とナイル河口での激戦で撃退し、エジプトの独立と安定を維持することに成功しました。彼の戦勝はメディネト・ハブ神殿の壮大なレリーフに鮮やかに刻まれています。戦車に乗り弓を放つラムセス3世、捕虜となった敵兵の列、凱旋する軍勢――壁画は彼の英雄譚と時代の激動を今にえています。
しかし、ラムセス3世の晩年は波乱に満ちていました。「ハレム陰謀事件」と呼ばれる王妃と側近による陰謀で暗殺されたとされ、近年の調査では、ミイラに喉を切られた痕跡が確認されています。彼の死後、王権は急速に衰え、神官団が権力を握るようになりました。
第20王朝後期には短命のファラオが相次ぎ、王家の谷の墓も簡素で未完成なものが増えました。墓泥棒が横行し、ファラオたちの墓は次々と荒らされ、王権の権威は失われていきます。こうして第20王朝の終焉は新王国の幕引き、そしてエジプトが混乱の第三中間期へと移行する序章となったのです。
参考資料:ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト 図録 2025
(遺物から見る古代エジプト王朝盛衰史⑥へ続きます)
【巡回予定】
2025年4月19日(土)〜 2025年6月15日(日)会場:静岡県立美術館
2025年6月28日(土)〜 2025年9月7日(日) 会場:愛知県 豊田市博物館
2025年9月2日(土)〜 2025年11月30日(日)会場:広島県立美術館