〇初期王朝時代|王権と造形ルールが生まれた時代
第1王朝~第2王朝 BC3100年頃~BC2686年頃の約400年
首都:下エジプトのメンネフェル(後のメンフィス)
初期王朝時代の美術は、上下エジプト統一という政治的出来事を背景に、王権を可視化するための象徴表現と造形ルールが初めて体系化された時代の美術です。
メソポタミア(現イラク)のウルク(BC4000年頃)に遅れて、エジプトでも都市国家「ヒエラコンポリス」が上エジプトのテーベ(ルクソール)近郊で誕生し(BC3500年~BC3100年)、その後、約BC3100年に初めて上下エジプトの統一王国を樹立しました。この頃、既にファラオという概念が生まれたり、象形文字(ヒエログリフ)の正式な使用、マスタバ(台形墓)の登場しています。信仰の中心はヒエラコンポリスで信仰されていた「ホルス神」でした。
この時代を代表する遺物として「ナルメルのパレット」があり、エジプト統一を最初に成し遂げたナルメル王の業績を神殿に奉納したもので、最初期のヒエログリフも描かれています。
〇古王国時代|ピラミッドと「永遠性の造形」が成立した時代
第3王朝〜第6王朝 BC2686年頃~BC2181年頃の約500年
首都:下エジプトのメンネフェル(後のメンフィス)
古王国時代の美術は、ファラオ=神という思想を、石と形式によって永遠化するための造形体系でした。
この時代はファラオによる強大な中央集権体制とピラミッドを代表する壮大な建築文化が花開いた時代です。ナイル川の氾濫による豊穣な農業が発展し、穀物や家畜の管理体制が整いました。
また古代エジプトの神々の体系も次第に整い、ファラオが単なる政治的指導者ではなく、ホルス神の化身として崇拝され、神々から託された「マアト(真理・調和・秩序)」を地上に保つ責任を担い、宇宙の秩序とナイルの氾濫、農業の豊穣までもその支配に委ねられていました。またファラオはその死後に「太陽神ラー」のもとで神として復活する存在と信じられており、その太陽神ラー信仰を背景にピラミッドも建設されたとされています。
ピラミッドを最初に建設したのは第3王朝のジェセル王(ネチェリケト)で、サッカラに「階段ピラミッド」(サッカラ)を建設しています。第4王朝に入るとスネフェル王がメイドゥームの「崩れピラミッド」、ダハシュールの「屈折ピラミッド」、「赤いピラミッド」、その息子のクフ王がギザに「大ピラミッド」、カフラー王が「第二ピラミッド」、メンカウラー王が「第三ピラミッド」をそれぞれ建設しました。
ヒエログリフが体系化されたのも古王国時代であり、第5王朝のウナス王のピラミッド内に初めて「ピラミッド・テキスト」が書かれ、第一中間期まで続きます。これは世界最古の宗教文書であり、死後にファラオが天空に昇り、太陽神ラーの船に乗って再生復活することを「言葉の力」で導くために作られました。
○古王国時代の美術

「王の頭部」(第3~第4王朝)
先に紹介したスネフェル王やクフ王、あるいはスネフェル王の先代、フニ王のものと思われる石頭です。これだけでも全長が54.3㎝もあるため、元々は巨大な像であったと思われます。
個性よりも正面性と均整が優先されている点に、ファラオ個人ではなく「永遠の王権」を表す像としての性格が表れています。
「壁龕に配された像」(第4~5王朝)
墓の壁面に備えられた像。故人を生前の面影を偲ぶ現在でいう「遺影」であり、この像に対して神官が様々な儀礼を執り行いました。
像は「故人の代替身体」として機能し、儀礼は像を通して死者に届くと考えられていました。

「歩く男性の小像」(第6王朝)
「赤」「黒」「白」の顔料がよく残っている彫像です。「歩く男性の小像」は大きな目が表現され、髪の真ん中に分け目があり、肩まである「かつら」を着用しています。これは第6王朝期の彫像に見られる典型的な特徴です。
片足を踏み出す定型的な歩行表現は、死後も活動し続ける存在としての生命力を示します。
「ひざまづくペピ1世の小像」(第6王朝)
ローマ時代まで繰り返し制作されたひざまずくファラオ像の最古の例です。ファラオがひざまずくのは神の前だけのため、神殿に配された神像の前に置かれていたと考えられる像です。目は銅製の縁に白と黒の石で象嵌されており、現在は失われていますが額の穴には元々金属製の「ウラエウス」(コブラ型の飾り)がついていたと思われ、これは彼が王族であったことを示しています。王がひざまずく姿は、神の前でのみ許される所作として、王権の神聖性を逆に強調します。
「ファラオ=神」という絶対的な神権王制に支えられていた古王国ですが、第6王朝のペピ2世の治世になると気候変動やナイルの氾濫不順の影響で農業生産が不安定化し、ファラオが「マアト」を保てなくなったとして、王族や地方貴族(ノモス総督)が自立化して地方分権化が進んだことで中央権力の弱体化し、王朝は衰退分裂します。
第一次中間期|信仰と美術が王から民へ広がった時代
第7王朝~第11王朝前半 BC2181年頃~BC2055年頃の約130年
第一次中間期の美術は、中央集権の崩壊とともに、ファラオの専有であった来世信仰と造形表現が地方貴族や民衆へと拡散していく過渡期の美術です。
第7王朝、第8王朝(首都:メンネフェル(メンフィス)、BC2181年頃~BC2160年頃)
古王国の残滓的存在の王朝で、支配力は弱体化しており、多くの王が短期間で交代しています。
第9王朝、第10王朝(首都:ヘラクレオポリス、BC2160年頃~BC2040年頃)
下エジプト南部のヘラクレオポリスで元ノモス(州)総督出身の家系がファラオとなり、台頭するもその影響は限定的でした。
文化、美術、宗教観の変化
中央からの統一した美術様式が弱まったため、地方で独自の様式が発展し、彫刻やレリーフに地方色の強い美術が見られるようになります。
また王墓も古王国のような巨大ピラミッドは建設されず、マスタバ(台形墓)に縮小、簡素化されたものが主流となります。
古王国では死後の世界で復活できるのはファラオのみとされていましたが、貴族や庶民でも死後に復活できるという信仰が広がり、彼らの墓の装飾が発展し、古王国ではピラミッド内に描かれた「ピラミッド・テキスト」が棺に描かれる「コフィン・テキスト」に変化していきます。
この時代に可視化された「正面性」「定型化された人体表現」「永遠性を志向する造形」は、のちのギリシア美術が自らの古典を形づくる際に、参照し、距離を取りながら再定義していく出発点の一つとなりました。
参考資料:ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト 図録 2025
【巡回予定】


