江戸の代表的浮世絵師④ 写楽、豊国、国貞

〇東洲斎 写楽(とうしゅう さいしゃらく、生没年不詳)
「謎多き浮世絵師」。写楽は1794年5月からたった約10か月間という短期間に蔦屋重三郎の店から約145点もの作品を発表し、その後一切の活動を辞め姿を消しました。彼の正体については不明な点が多く諸説ありますが、現代では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者(下掛宝生流ワキ方)、斎藤十郎兵衛(1763年~1820年)が定説となっています。
彼の代表作は、「大首絵」と呼ばれる形式で描かれた歌舞伎役者の肖像画です。役者の表情や個性を誇張して描くこの大胆な手法は、従来の美化された役者絵とは一線を画しました。代表作品には「大谷鬼次の奴江戸兵衛」(左側)や「市川鰕蔵の竹村定之進」(右側)などがあり、写楽の独自性と洞察力が際立っています。彼の作品を分類すると第1期から第4期までに分けられます。上記の代表作はいずれも第1期の作品であり、第1期と第2期、第3期と第4期では別人とも思えるほどに作風が異なり、後になるほど精彩を欠き、版画としての品質は劣っていくのも彼の謎の一つと言えるでしょう。

〇初代 歌川 豊国(うたがわ とよくに、1769年〜1825年)
「理想の美を描く町人文化の鏡」。木彫人形師の父のもとに生まれ、幼少期から絵を好み、歌川派の祖、豊春に入門します。豊春から受け継いだ画法に独自の工夫を加え、歌川派を再興し、役者絵の分野で特に注目を集めました。1794年、彼の代表作である「役者舞台之姿絵」を発表。この作品は、当時の役者絵に理想化された美しさを盛り込むことで多くの支持を得ました。(掲載作品:役者舞台の姿絵 かうらいや)
この時期には東洲斎写楽と競い合い、彼の描く役者の似顔絵は「物言うがごとく」と評されるほど表情豊かに描き、役者とファン双方からの評価を不動のものとしました。1825年、57歳で死去。
彼の門下には、歌川国貞や歌川国芳、その弟子には月岡芳年、河鍋暁斎など後の浮世絵界を担う絵師たちが名を連ね、歌川派は江戸文化の一大潮流を形成していきます。

後期(文化文政年間から安政年間、1804頃〜1859頃に活躍)

〇歌川 国貞(うたがわ くにさだ、1786年〜1865年)
「江戸の美と粋の体現者」。後に三代目歌川豊国。幼少期から歌舞伎に強い関心を持ち、役者絵を模写する中でその才能が芽生え、15歳で歌川豊国に弟子入りしました。20代前半で浮世絵師としてデビューし、当時の人気作家である滝沢馬琴の挿絵を描くなどして頭角を現しました。彼は役者絵、美人画、武者絵、風景画、肉筆画とジャンルを問わず、生涯で二万五千点もの作品を残しています。
代表作は役者絵では、「東海道五十三次之内」シリーズ(通称「役者見立東海道五十三駅」)。東海道宿場町の風景と歌舞伎役者を融合させた、華麗な色彩と精緻な構図が特徴の作品です。美人画では「今風化粧鏡」シリーズで、鏡枠を活用し女性の化粧の様子を繊細に描写した作品です。陰影や光の表現に優れ、細部まで緻密に描き込まれています。(掲載作品:東海道五十三次之内 白須賀 猫塚白須賀(左側)、今風化粧鏡(右側))彼が活動していた時期には天保の改革による厳しい規制が浮世絵にも及び、歌舞伎役者や遊女を題材にした作品を発表することが禁止されたこともありましたが、それでもその規制を回避しつつ制作を続けました。1864年に79歳で死去。

江戸の代表的浮世絵師⑤に続きます。)