江戸の代表的浮世絵師⑤ 英泉、広重、国芳

〇渓斎 英泉(けいさい えいせん、1790年~1848年)
「退廃的で妖艶な美人画」。1790年に江戸で下級武士の子として生まれました。幼い頃に狩野派の絵師から技法を学び、後に菊川英山の門人となります。また、近所に住む葛飾北斎からも画法を学びました。彼の描く美人画は、「退廃的で妖艶な雰囲気」を持つ独自のスタイルで人気を博し、吉原の遊女を題材にした作品が多く見られます。掲載した作品は「傾城道中双録見立 吉原五十三対 扇屋内花扇(ボストン美術館蔵)」。彼の描く遊女はうつむき加減で身体をS字状にカーブしているのが特徴です。その他、彼の著名な作品として「雲龍打掛の花魁」が挙げられ、1886年にパリにおいて雑誌「パリ・イリュストレ(1886年5月号)」に美術商の林忠正が初めて西欧人向けに日本文化の紹介記事を掲載した際には、表紙にこの作品が使用されました。

また風景画である「木曽街道六十九次」の制作にも参加し、この連作は当初彼が担当しましたが、途中で歌川広重が引き継いで完成させています。掲載作品は「木曽街道六十九次 深谷之駅(ボストン美術館蔵)」(上部)。夕暮れ時の宿場町の様子を描いており、近くの宿屋の建物は明るく、遠くの路地はより暗いシルエットを用いて巧み遠近を表現しています。これは後に同シリーズを描いた広重の「静かな情緒」とは対照的な個性が際立つものとなっています。(参考:歌川 広重「木曽街道六十九次 洗馬(ミネアポリス美術館蔵)」(下部))。

その後の天保の改革にて規制が強化されると、浮世絵業界は大きな打撃を受け、彼も活動の重点を浮世絵から執筆業に移します。晩年には遊郭の経営にも携わりましたが、成功には至りませんでした。1848年に死去。

〇初代 歌川 広重(うたがわ ひろしげ、1797年〜1858年)
「旅情を描いた風景画の名匠」。江戸城近くの定火消同心の家に生まれ、13歳で両親を失い家督を継 ぎました。その後家族を支えつつ絵師を志し、15歳で歌川豊広に弟子入りしました。挿絵や役者絵で下積みを続けましたが、1831年に「東都名所十景」で注目を浴び、続く「東海道五十三次」で人気絵師の仲間入りを果たします。掲載作品は「東海道五十三次 蒲原(ボストン美術館蔵)」。雪の降り積もり、粉雪が舞う中、先を急ぐ旅人の姿はその景色と相まって、厳しい冬の寒さを感じさせる作品です。

彼の名所絵はその風景だけでなく、その土地の人々や名物を巧みに組み合わせて描いた点や、「ベロ藍」と呼ばれる青色の輸入染料を使用し、空や水を鮮烈な青色で描写しているのが特徴です。この青色の描写は「ヒロシゲ・ブルー」と呼ばれ、19世紀後半のヨーロッパ美術界でも注目され、ジャポニスムの一翼を担いました。晩年の「名所江戸百景」を2点紹介しましょう。まず、右側(上側)の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立(ボストン美術館蔵)」。おそらく、広重の作品の中で一番有名な作品ではないでしょうか。後にフィンセント・ファン・ゴッホが自身の作品に取り入れるなど、西洋への影響も大きい作品です。空から降る雨を細く黒い線で表現し、橋の下の川面に「ベロ藍」が使用されています。左側(下側)の「猿若町(ミネアポリス美術館蔵)」。この作品には路地の奥にある消失点に向けて作品内の主要な線が走る「一点透視図法」が取り入れられており、歌川広重ならではの叙情性が遺憾なく発揮されています。1858年に死去。

〇歌川 国芳(うたがわ くによし、1798年〜1861年)
「武者絵と戯画で江戸を沸かせた奇才」。幼少期から絵に才能を示し、15歳で歌川豊国に弟子入りしますが、初期の頃は成功せず、兄弟子の歌川国直の助けを得て画技を磨きました。1827年、中国の小説「水滸伝」を題材にした連作「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」を制作。躍動感あふれる構図と鮮やかな色彩で、豪傑たちの力強さを表現して人気を博し、以後「武者絵の国芳」として知られるようになります。掲載作品は「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 舩火児張横(ボストン美術館蔵)」。

天保の改革では浮世絵業界に厳しい規制が課されましたが、彼は人物を動物に置き換える「見立て絵」で制作するなど独特のユーモアのある手法で創作を続けます。遊郭を舞台にした作品で登場人物を雀に描き替えるなど(左側(上側)里すずめねぐらの仮宿(部分)(大英博物館))、その規制を巧みに回避しました。
その他、彼の作品には、斬新なアイデアや遊び心があふれており、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」などは人体が集合してヒトの顔を表現するなど、マニエリスムを代表する画家アンチンボルドの作品を彷彿とさせます。1861年に65歳で死去しましたが、彼の弟子には月岡芳年や河鍋暁斎らがおり、近代以降の美術にも大きな足跡を残しています。

(江戸の代表的浮世絵師 了)