浮世絵師入門⑤|英泉・広重・国芳 —— 幕末へ向かう旅情・退廃・奇想

浮世絵というと、華やかな美人画、旅情あふれる風景画、豪快な武者絵などを思い浮かべるかもしれません。しかし江戸後期から幕末へ向かう時代の浮世絵には、単なる華やかさでは捉えきれない空気があります。

――うつむき加減の女性がまとわせる、疲れと妖艶さ。
――雨や雪の中を歩く旅人の、名もない時間。
――武者を巨大化し、日常や怪異を笑いと奇想へ変える想像力。

そこには、江戸という都市と社会が成熟し、同時に少しずつ揺らぎ始めた時代の感覚が映し出されています。

第5回で取り上げるのは、渓斎英泉、歌川広重、歌川国芳の三人です。

英泉は、江戸後期の美人画に退廃的な空気を持ち込みました。広重は、街道や名所を、旅人の感情が流れ込む風景として描きました。そして国芳は、武者絵、戯画、怪奇表現によって、閉塞した時代を笑いと奇想でくぐり抜けました。

三人の作品をたどると、幕末へ向かう浮世絵が、ひとつの様式には収まらない豊かな表現へ広がっていく様子が見えてきます。

この記事で見る時代:江戸後期から幕末(19世紀前半〜中頃)
この記事で見る流れ:美人画に倦怠と身体の重さを描く英泉 → 名所を旅人の時間へ変える広重 → 豪傑・笑い・怪異によって想像力を広げる国芳

江戸後期、浮世絵は少し暗く、少し自由になる

江戸時代後期になると、浮世絵の題材と表現は大きく広がっていきました。

美人画や役者絵だけでなく、街道や名所を描く風景画、歴史や物語を題材にした武者絵、動物や妖怪を描く戯画など、多様な作品が生み出されます。

その背景には、出版文化の発達と、浮世絵を買い求める人々の欲望がありました。

人々は、評判の美人や役者だけでなく、まだ訪れたことのない名所を見たい、物語の英雄を見たい、笑える絵や驚くような絵を手元に置きたいと考えるようになります。

浮世絵は、江戸の流行を伝えるものから、人々の想像力を満たすメディアへと広がっていきました。

一方、天保の改革をはじめとする幕府の規制によって、贅沢な風俗や遊郭、役者を描くことが制限された時代でもあります。

浮世絵師たちは、題材を変え、表現をひねり、時には笑いや怪異へと置き換えながら制作を続けました。英泉、広重、国芳の作品には、そうした江戸後期の複雑な空気が、それぞれ異なる形で現れています。

渓斎 英泉|江戸後期の退廃を描いた美人画

渓斎英泉は、1790年に江戸の下級武士の家に生まれました。

幼い頃に狩野派の絵師から技法を学び、その後、菊川英山の門人となります。葛飾北斎との交流や影響も指摘されており、美人画だけでなく、風景画、版本の挿絵、文章の執筆など、幅広く活動しました。

英泉の名を特徴づけているのは、江戸後期の美人画です。

鳥居清長の女性たちは、すらりとした身体で江戸の町を歩き、明るく開かれた都市空間の中に立っていました。

それに対して、英泉の女性には、重い髪形、伏せられた目、鋭く細長い輪郭、どこか疲れを感じさせる表情が目立ちます。

――艶やかではある。しかし、晴れやかではない。

英泉の美人画には、華やかな遊里の奥にある倦怠や閉塞感までが漂っているように見えます。

渓斎英泉を見るポイント

  • 伏せられた目と視線の方向を見る
  • 角張った輪郭、長い目、わずかに開いた口元を見る
  • 豪華な髪形や衣装と、気怠い表情の対比を見る

《春情妓談水揚帳より、拒絶する芸者》|美しさの中に現れた倦怠

渓斎英泉《春情妓談水揚帳より、拒絶する芸者》《春情妓談水揚帳より、拒絶する芸者》では、女性の顔が画面いっぱいに拡大されています。

目は斜め下へ向けられ、眉と鼻筋は鋭く、わずかに開いた口元だけが赤く浮かび上がっています。豪華な髪形や衣装の模様に囲まれていながら、その表情は明るい笑顔とはほど遠いものです。

女性を遠くから全身で見せるのではなく、顔の近くまで寄ることで、英泉は美しさの中にある緊張や気怠さを強く感じさせます。

画像:渓斎英泉《春情妓談水揚帳より、拒絶する芸者》1824年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《駕籠から降りる遊女》|豪華な衣装が身体を包み込む

渓斎英泉《駕籠から降りる遊女》《駕籠から降りる遊女》では、遊女が駕籠から身を乗り出し、外へ降りようとする瞬間が描かれています。

遊女は静かに立っているのではありません。狭い駕籠の中から身体を曲げ、重い衣装をまとったまま動こうとしています。そのため、着物の袖や裾は幾重にも重なり、人物の身体の輪郭を覆い隠すほど大きく広がっています。

英泉の美人画では、衣装は女性を飾るための付属物ではありません。複雑な模様、厚く重なる布、髪を埋め尽くす簪。画面の中では、女性の身体と同じくらい、衣装そのものが強い存在感を持っています。

鳥居清長の美人画では、長身の女性の身体が、軽やかな線によって江戸の町や川辺へ伸びていました。それに対して英泉の女性は、豪華な衣装の内側へ身体を包み込まれているように見えます。

駕籠から外へ出ようとする動きが描かれていても、人物には軽やかさより、衣服や髪飾りの重さが感じられます。《春情妓談水揚帳より、拒絶する芸者》では、顔へ接近することで、美しさの中にある緊張や倦怠が強調されていました。

《駕籠から降りる遊女》では、その感覚が全身へ広がっています。

華やかな装いは女性の身分や美しさを示す一方で、その身体を拘束するものにも見えます。英泉は、遊女を理想化された美人として描くだけでなく、豪華な衣装を身につけて生きる身体の重さまで、画面の中へ取り込んだのです。

画像:渓斎英泉《駕籠から降りる遊女》1820年代初頭、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《木曽海道六拾九次之内 蕨宿 戸田川渡場》|人と移動を描く木曽街道

英泉は、美人画だけでなく風景画にも取り組んでいます。

代表的な仕事のひとつが、《木曽街道六十九次》です。英泉が先に制作を始め、その後は歌川広重も加わり、二人による連作として完成しました。

渓斎英泉《木曽海道六拾九次之内 蕨宿 戸田川渡場》《木曽海道六拾九次之内 蕨宿 戸田川渡場》では、広い川面を一艘の渡し船が横切っています。

船には旅人だけでなく、荷物や馬までが乗せられています。水面は青く静かに広がっていますが、船の上には人と物が密集し、川を渡る旅の現実的な重さが描かれています。

岸辺には街道を進む人々が見え、その奥には松の木や低い家並みが続いています。空を飛ぶ鳥と水上の白鷺が、横へ広がる風景に動きを加えています。

英泉の風景画では、風景そのものの美しさだけでなく、そこを移動する人間や馬、荷物の存在が前景に押し出されます。

広重がしばしば人を空気や遠景の中へ溶け込ませるのに対し、英泉は旅の途上にある身体や労力を、より具体的に見せています。

英泉の美人画と風景画は、題材こそ異なります。

しかし、どちらにも軽やかな理想像だけではなく、身体の重さがあります。美人画では髪や衣装、伏せた視線として、風景画では人や馬、荷物を運ぶ旅の現実として現れています。

天保の改革によって浮世絵への規制が強まると、英泉はしだいに制作の重点を執筆へ移しました。晩年には遊郭の経営にも関わったとされますが、成功には至らず、1848年に亡くなりました。

画像:渓斎英泉《木曽海道六拾九次之内 蕨宿 戸田川渡場》1838年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

歌川 広重|風景ではなく、旅人の時間を描いた人

歌川広重は、1797年に江戸の定火消同心の家に生まれました。

13歳で両親を失い、家督を継いだ後、15歳頃に歌川豊広へ入門します。当初は挿絵や役者絵などを手がけましたが、やがて名所絵へ進み、1830年代に《東都名所》や《東海道五十三次》によって人気絵師となりました。

広重は、一般に「風景画の名手」と呼ばれます。

しかし、広重の作品では風景は単なる背景ではありません。

雨は人を走らせ、雪は歩みを遅くし、夕暮れは町や道を静けさで包みます。自然や天候が、そこを通る人間の時間を作っています。

そこには、雨の中を急ぐ人、雪道を進む人、夕暮れの町を歩く人、遠くの山を眺める人が描かれています。

広重が描いたのは、名所そのものというより、名所を通り過ぎる人間の時間だったのかもしれません。

歌川広重を見るポイント

  • 雨、雪、霧、夕暮れなどによって変わる空気を見る
  • 広い風景の中に置かれた、人間の小ささを見る
  • 旅人がどちらへ向かい、どのような時間を過ごしているかを見る

《東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪》|雪の中を進む旅人の時間

歌川広重《東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪》《東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪》では、雪の積もった道を旅人たちが歩いています。

画面には白い雪が広がり、その中に小さな人影が置かれています。旅人たちは絵の主役でありながら、雄大な自然の中ではあまりにも小さな存在です。

顔の表情まではわかりません。それでも、身体を少し前へ傾け、雪の中を進む姿から、寒さや足元の重さが伝わってきます。

画像:歌川広重《東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪》1833〜34年頃、シカゴ美術館蔵(CC0)

《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》|雨の一瞬を線で刻む

広重の名所絵では、空や水を表す鮮やかな青も大きな特徴です。

江戸時代後期には、舶来の顔料である「ベロ藍(プルシアン・ブルー)」が浮世絵に使われるようになりました。

ベロ藍は北斎をはじめ、同時代の浮世絵師にも用いられましたが、広重は空や水、遠景の表現に効果的に取り入れました。その深い青は、後に「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれています。

晩年の連作《名所江戸百景》では、色彩だけでなく、画面の切り取り方にも広重の特徴が現れています。

歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》《大はしあたけの夕立》では、突然降り始めた雨の中、人々が橋の上を急いで渡っています。

画面を斜めに走る橋と、細い線で表された雨によって、短い夕立の時間が切り取られています。

この作品は、後にフィンセント・ファン・ゴッホによって模写されました。しかし広重の面白さは、西洋美術への影響だけにあるのではありません。

雨を一本一本の線として刻み、橋を斜めに配置し、遠くの岸を霞ませる。その構図によって、人が雨に追われる一瞬を紙の中に固定したことにあります。

画像:歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》1857年、シカゴ美術館蔵(CC0)

《名所江戸百景 猿わか町よるの景》|芝居町に流れる夜の静けさ

歌川広重《名所江戸百景 猿わか町よるの景》《猿わか町よるの景》では、月明かりの中に芝居町が広がります。

道や建物は奥へ向かって収束し、町の深さが強調されています。しかし、画面を支配しているのは建物ではなく、夜の静けさです。

道を歩く人々の影は長く伸び、整然と並ぶ町並みの中に、芝居が終わった後の静かな時間が流れています。

広重は、江戸の名所を情報として紹介するだけでなく、その場所に流れる空気と時間まで描こうとしました。

1858年、広重は62歳で亡くなりました。

画像:歌川広重《名所江戸百景 猿わか町よるの景》1856年、シカゴ美術館蔵(CC0)

歌川 国芳|江戸の欲望を巨大化した武者絵

歌川国芳は、1798年に江戸で生まれました。

幼い頃から絵に親しみ、15歳頃に初代歌川豊国へ入門します。しかし、すぐに人気絵師となったわけではありません。

初期には仕事に恵まれず、兄弟子の歌川国直の助けを受けながら画技を磨いたとされます。

歌川国芳を見るポイント

  • 人物の身体が画面をどのように支配しているかを見る
  • 斜めの線やねじれた姿勢が生む激しい動きを見る
  • 豪傑、日常、動物が、笑いや怪異へ変わる過程を見る

《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 青面獣楊志》|画面を支配する豪傑の身体

歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 青面獣楊志》国芳の名を広く知らしめたのが、1827年頃から制作された《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》です。

中国の小説『水滸伝』に登場する豪傑たちを描いたこの連作は、大胆な構図、力強い身体、鮮やかな色彩によって大きな人気を得ました。

同シリーズの《青面獣楊志》では、豪傑の身体や武器、衣服の線が画面に密集しています。

人物は風景の中に置かれるのではなく、画面の大部分を占め、見る人の目の前へ迫ってきます。

国芳は、物語を静かに説明するよりも、見る人が一瞬で興奮する画面を作りました。

武者たちは強く、大きく、現実の人間を超えた存在として描かれます。そこには、江戸の人々が物語の英雄に求めた力や自由が投影されているように見えます。

画像:歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 青面獣楊志》1827〜30年頃、シカゴ美術館蔵(CC0)

《江戸御厩河岸》|雨の日の日常を笑いへ変える

天保の改革では、役者や遊女を描く浮世絵、贅沢な風俗を表す出版物などが厳しく規制されました。

国芳は、人間を動物へ置き換え、歴史上の人物に見せかけ、複数の身体から別の像を作るなど、題材と表現を変形させながら制作を続けました。

しかし国芳の笑いは、政治的な規制をかわすためだけのものではありません。江戸のありふれた日常にも、思わず笑ってしまうような瞬間を見つけています。

歌川国芳《江戸御厩河岸》《江戸御厩河岸》では、激しい雨の中を人々が歩いています。三人の男は一本の傘の下に身を寄せ、身体を縮めながら進みます。その横では、雨など気にしていないかのように、売り物の鰻を食べる男が歩いています。

さらに画面の反対側には、何本もの傘を背負い、自分の姿まで傘に隠してしまった人物が描かれています。広重が雨の中に旅情を見いだしたとすれば、国芳は同じ雨の中に、人間の可笑しさを見つけました。

画像:歌川国芳《江戸御厩河岸》1830〜44年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《岡崎の猫》|身近な動物が巨大な怪異になる

国芳の想像力は、笑いだけでなく怪異の世界にも広がります。

歌川国芳《岡崎の猫》《岡崎の猫》では、巨大な猫の顔が画面の背景いっぱいに現れています。

その目と牙は、手前に描かれた人間たちを覆うほど大きく、猫という身近な動物が、一瞬で恐ろしい怪物へ変わっています。

しかし、巨大な猫を真正面から描くのではなく、舞台の背景や影のように置くことで、現実と幻覚の境界が曖昧になっています。

国芳は、大きさの感覚を壊し、日常の動物を怪物へ変えることで、見る人の想像力を刺激しました。

国芳の作品にある笑いや怪異は、現実から逃げるためのものではありません。

ありふれた日常や閉塞した社会を、少し違う角度から見るための装置でした。

国芳は1861年に亡くなります。しかし、その表現は門人の月岡芳年へ受け継がれ、幼少期に国芳のもとで学んだ河鍋暁斎にも影響を残しました。

劇的な構図、怪奇表現、風刺とユーモアは、明治の美術へと形を変えていきます。

画像:歌川国芳《岡崎の猫》1850年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

英泉・広重・国芳を並べると見えてくること

絵師 浮世絵に加えたもの 見るポイント
渓斎 英泉 江戸後期の退廃と身体の重さ 伏せた視線、鋭い顔立ち、華やかさと倦怠の対比
歌川 広重 風景の中を流れる時間と旅情 雨、雪、夕暮れ、人間の小ささ、空気の表現
歌川 国芳 武者絵の迫力と、笑い・怪異の奇想 巨大な身体、日常の可笑しさ、怪物へ変わる動物

英泉、広重、国芳は、同じ江戸後期に活動しながら、まったく異なる方向へ浮世絵を広げました。

英泉は、美しさの中に倦怠と身体の重さを描きました。広重は、名所を旅人の時間へ変えました。国芳は、豪傑、雨の日の日常、身近な動物を、笑いと怪異へ変えました。

歌川国芳《相馬の古内裏》三人に共通しているのは、目の前の江戸をそのまま写してはいないことです。

浮世絵は、現実を記録するだけのメディアではありません。

現実を少し違うものとして見せることで、人々に別の時間、別の身体、別の世界を手渡すメディアでもあったのです。

画像:歌川国芳《相馬の古内裏》1840年代、Wikimedia Commons(Public Domain)

まとめ|幕末へ向かう浮世絵は、ひとつの様式に収まらない

江戸後期から幕末へ向かう時代、浮世絵は、美人画、名所絵、武者絵、戯画、怪奇表現という複数の方向へ広がっていきました。

それは、浮世絵が衰えたということではありません。

出版文化の発達と規制の強化が交錯する中で、絵師たちは新しい題材と表現を探し続けていました。

しかし、江戸幕府の終わりとともに、浮世絵を支えてきた社会も大きく変わります。

写真、新聞、洋風の印刷技術、近代都市。新しいメディアが次々と登場する明治の時代に、浮世絵はどのような姿で生き残ったのでしょうか。

次回は、月岡芳年、河鍋暁斎、小林清親を通して、江戸の浮世絵が、明治の物語、奇想、都市の光へと変形していく様子を見ていきます。