1月26日と法隆寺金堂壁画焼損 ―― 文化財防火デーの原点

1月26日は、法隆寺金堂壁画が焼損した日です。

1949年(昭和24年)1月26日、解体修理中の火災により、金堂内にあった壁画は甚大な被害を受けました。この出来事は社会に強い衝撃を与え、文化財を火災から守る意識を全国に広げる契機となり、のちに「文化財防火デー」へとつながっていきます。(Image: Hōryū-ji, photo by Martin Falbisoner, CC BY-SA 4.0.)

ここで失われたのは、名品としての「壁画」そのものだけではありません。金堂の堂内空間を荘厳し、祈りの場の空気を形づくっていた色彩、光、そして精神の環境――その全体が傷ついたという意味で、文化史に深い痕跡を残しました。

法隆寺金堂壁画とは何か ―― 四方四仏と八菩薩がつくる浄土空間

法隆寺金堂壁画は、7世紀後半〜8世紀初頭(飛鳥時代末〜奈良時代初頭)の制作と考えられており、東アジア仏教絵画史上の至宝と評価されてきました。

外陣の大壁十二面は、次のような配置構成だと伝えられます。

外陣大壁十二面の主題(クリックで展開)
  • 1号壁・釈迦浄土図:東の大壁
  • 2号壁・菩薩半跏像:東面の南端
  • 3号壁・観音菩薩立像:南面の東端
  • 4号壁・勢至菩薩立像:南面の西端
  • 5号壁・菩薩半跏像:西面の南端
  • 6号壁・阿弥陀浄土図:西の大壁
  • 7号壁・観音菩薩立像:西面の北端
  • 8号壁・文殊菩薩坐像:北面の西端
  • 9号壁・弥勒浄土図(異説もあり):北壁扉の西側の大壁
  • 10号壁・薬師浄土図(異説もあり):北壁扉の東側の大壁
  • 11号壁・普賢菩薩坐像:北面の東端
  • 12号壁・十一面観音立像:西壁の北端

当時の礼拝者は、堂内で視線を巡らせるうちに、壁面の仏と菩薩に囲まれるような感覚を得たはずです。つまり壁画は「一枚の名画」ではなく、金堂という建築を丸ごと浄土の場へ変えるための設計でした。そこで立ち上がっていたのは、図像の意味だけではなく、光と色彩がつくる「場の気配」そのものだったのだと思います。

金堂の壁画は、単独の作品群というより、堂内そのものを一つの世界として立ち上げる装置でした。人が礼拝し、視線を上げ、沈黙の中で仏に対峙する。そうした体験全体を支えていたのが、壁面に置かれた色彩と像容の秩序だったのだと思います。

法隆寺金堂壁画の保存記録 ―― 写真原板と戦前の大規模調査

しかし、失われたものの前に、手をこまねいていたわけではありません。火災以前から壁画の劣化は問題視され、正確な記録を残す試みが重ねられていました。その象徴が、1935年(昭和10年)に文部省の事業として実施された大規模写真撮影です。

壁画を原寸大で分割撮影するために高度な技術で作られた巨大な「写真原板(写真ガラス原板)」は、焼損前の姿を伝える第一級の資料となり、2015年に国の重要文化財に指定されています。そこに写っているのが「失われた壁画の代わり」だから、というだけで指定されたのではありません。

写真原板は、撮影当時の技術と判断、そして「何を残すべきか」という時代の意志そのものを物質として抱えています。焼損前の姿を未来へ渡すための「証拠」であると同時に、保存・修復や再現の精度を支える基準点でもあるのです。

つまり原板は、過去を懐かしむための資料ではなく、文化財を守り続けるために欠かせない「現在進行形の文化財」になったのです。

法隆寺金堂壁画の模写と再現 ―― 日本画家たちによる継承の試み

さらに、金堂壁画の模写事業には、日本を代表する画家たちが深く関わりました。

焼損前の姿を写し取ろうとする模写は、創作性や恣意的な復元性を排した、徹底した「写し」を求められる仕事です。そこに多くの画家が力量を注ぎ、焼損前の色や線を後世へ渡す努力が続けられましたが、焼損により未完成に終わります。

そして戦後、焼損から時を経て進められたのが再現事業です。1966年に再現事業が決定し、安田靫彦前田青邨橋本明治吉岡堅二という当時を代表する画家を主任とする4班14人の体制で、焼損前の姿をふたたび堂内に立ち上げるための再現模写が制作されました。

現在、金堂の内に奉安されている壁画は、この時に制作された「再現壁画」です。

私たちはいま、失われたオリジナルそのものではなく、画家たちの知見と技術、そして写真原板などの記録資料を結晶させた成果としての壁画を前にしているのです。

再現壁画は代用品ではない ―― 文化財保存と公開の考え方

ここで大切なのは、「再現は代用品にすぎない」と切り捨てることではありません。

公開と保存の両立が難しい文化財において、記録・模写・再現は、失われた時間を橋渡しする具体的な方法です。

再現壁画は、失われたものを“なかったこと”にするためではなく、失われたという事実を抱えたまま、それでも空間を継承するために生まれたものです。写真原板のような記録が文化財として守られるのも、その橋が「渡れる強度」を持っているからこそだと言えるでしょう。

焼損した法隆寺金堂壁画の現状 ―― 収蔵庫に残るオリジナル

そして、ここは強調しておきたいところです。

壁画は「完全に焼け落ちた」わけではありません。

火災時、金堂内部は高温にさらされ、柱は炭化し、壁画の色彩は失われましたが、かろうじて像の輪郭や構図の一部は残りました。焼損壁画のオリジナルは、炭化した柱などとともに、現在も法隆寺大宝蔵院(百済観音堂)の横にある収蔵庫で厳重に保管されています。

近年は秋を中心に、時期を区切った公開が行われている年もあり、保存と活用のバランスを探る取り組みが続いています。画像は2026年1月の日韓両首脳による法隆寺視察の様子です。(Image: Sanae Takaichi and Lee Jae-myung visit Hōryū-ji, Cabinet Public Affairs Office (Japan), CC BY 4.0.)

私自身も実際に拝観しましたが、焼損前に想像するような華やかな色彩はほぼ失われ、壁画全体がフィルムのネガのような印象を受けました。それでも、仏像の輪郭線や像の配置は確認でき、当時の姿が確かにそこに残っていることが分かります。

さらに不思議なことに、焼損によってかえって像の存在感が際立ち、部分的には、焼失前の模写で見る印象より鮮明に感じられる箇所すらありました。

焼けたからこそ線が立ち上がって見える――その経験は私たちに、「失われた/残った」という単純な二分法では語れない現実を教えてくれます。

法隆寺金堂壁画の飛天 ―― 焼損を免れた色彩の記憶

一方で、火災の難を免れ、当時の色彩を今に伝える壁画もあります

内陣小壁の飛天などは、火災前に取り外されていたため焼損を免れ、当時の色彩を残しており、現在でも、大宝蔵院でその姿を見ることができます。(Image: Apsara, Hōryū-ji, BENRIDO, Public Domain.)

焼損壁画の「線の記憶」と、飛天の「色彩の記憶」。同じ金堂壁画の系譜の中で、異なる時間が並んで立ち上がるところに、保存とは何かという問いが凝縮されているように感じます。

法隆寺金堂壁画を見比べる ―― 橿原考古学研究所の陶板展示

奈良にはこの出来事を体感的に思い出せる場所として、橿原市にある奈良県立橿原考古学研究所付属博物館があります。エントランス(玄関ホール)には、法隆寺金堂壁画第1号壁「釈迦浄土図」について、焼損後の姿を複製した陶板に加え、焼損前の姿を復元した陶板も展示され、向かい合わせに比較できる形になっています。(Image:著者撮影)

焼損前後を同じサイズ感で見比べる体験は、災害が文化財にもたらす現実を、言葉以上に伝えてくれます。理解が実感へと変わる、その入口としての展示です。

なお、この博物館には、法隆寺の近くにある未盗掘墳「藤ノ木古墳」から出土した品々も展示されています。あわせて鑑賞すると、斑鳩の古代史がより立体的に感じられるはずです。

法隆寺金堂壁画焼損が残したもの ―― 日本の文化財保存技術の現在

1月26日に思い出したいのは、火の怖さだけではありません。

失われたものを悼みながら、記録を残し、写し取り、再現し、守り方を更新してきた人々の手つきです

文化財は「昔のもの」ではなく、現代進行形で、いまも守り続けなければ未来へ渡せないものです。(Image:著者撮影)

日本の文化財の保存修復技術は、世界のトップ水準を走っていると私は思います。そして、その意識をより高めた契機が、この出来事だったことを私たちは忘れてはいけないのだと思います。過去を嘆くだけで終わらせず、「これ以上失わない」ために感度を上げる日として、1月26日をあらためて胸に置いておきたいと思います。

法隆寺金堂壁画を訪ねる ―― 大宝蔵院と橿原考古学研究所

聖徳宗総本山 法隆寺 大宝蔵院(百済観音堂)
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館