1. はじめに|壊れたあとの世界で
輪郭がほどけたあと、世界は元に戻るわけではありません。
一度壊れた見え方は、消えることも、簡単に修復されることもなく、
私たちの視線のどこかに残り続けます。
モネと菱田春草が触れたのは、世界が溶ける、その瞬間でした。
しかし、その瞬間に立ち会ったあと、人はどう生き続けることができるのでしょうか。
ルノワールと横山大観もまた、同じ時代の揺らぎのなかで、
一度は輪郭を壊そうとした画家たちでした。
本章では、破壊によって生まれてしまった感覚を、否定も放棄もせず、
引き受けながら生きた二人の姿を辿ります。
2. 時代背景|破壊のあとに残された問い
十九世紀末から二十世紀初頭。
新しい表現は、次々と生まれていました。
既存の価値観を壊し、見ることそのものを問い直す試みは、
もはや特別なものではなくなりつつあります。
しかし、破壊が繰り返される時代において、
もう一つの問いが浮かび上がってきました。
壊したあと、その感覚をどう扱うのか。
誰が引き受け、どのように生き続けるのか。
ルノワールと横山大観は、この問いから逃げなかった画家たちでした。
3. ルノワール|あいだに立ち続けるという選択
ルノワールは、印象派の画家として出発しました。(Image: Pierre-Auguste Renoir, photo by Patrice Schmidt (Musée d’Orsay / RMN-Grand Palais), Public Domain.)
筆触を分解し、光に溶ける色彩を画面に定着させようとした点で、
彼もまた、モネと同じ破壊の側に立っていました。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(Image: Le Moulin de la Galette, Pierre-Auguste Renoir, Public Domain.)に描かれた祝祭の人々は、明確な輪郭を持たず、光と空気のなかに溶け込んでおり、個々の人物は分解されながらも、画面全体には、確かな生の気配が満ちています。
しかしルノワールは、その破壊の只中に留まり続けることを選びませんでした。
人物の量感、
古典的な構成、
サロン的な評価体系。
彼はそれらを、完全には捨てなかったのです。
それは後退ではありません。
壊れてしまった感覚を、社会のなかで生きさせるための選択でした。
晩年の裸婦像に見られる、重く柔らかな身体の表現は、
単なる古典回帰ではありません。
光によって分解された世界を、もう一度「触れうるもの」として、
身体の手触りへと結び直そうとする試みでした。
ルノワールは、破壊と伝統のあいだに立ち続けました。
その揺れを引き受けること自体が、彼の生き方だったのです。
4. 横山大観|壊れた感覚を、地盤に変える
横山大観もまた、菱田春草とともに、日本画の輪郭を壊そうとした画家でした。(Image: Yokoyama Taikan (1950), photo by Kodansha, Public Domain.)
朦朧体は、完成された様式として生まれたものではありません。
世界の見え方が変わってしまったことへの、切実な応答でした。
しかし春草が早くに世を去ったあと、その不安定な感覚は、
大観の手に残されます。
捨てることもできた。別の様式へ移ることもできた。
それでも大観は、壊れかけた表現を抱え続けました。
『生々流転』(部分抜粋、Image: Detail from Metempsychosis, Yokoyama Taikan (1868–1958), Public Domain.)に描かれるのは、完成された形ではなく、生成と消滅が循環する時間そのものです。
朦朧とした色彩と気配は、前衛的であることよりも、この感覚を失わないために選ばれたものでした。
大観は、破壊を一過性の革命に終わらせませんでした。
壊れてしまった見え方を、次の時代が立つための地盤へと変えていったのです。
5. 受け入れるという強さ
ルノワールと横山大観の共鳴は、技法や様式の類似にあるのではありません。
それは、態度の一致です。
一度壊してしまった世界を、なかったことにしない。
その感覚とともに、生き続ける。
ルノワールは、
壊れた感覚を身体へと引き戻し、
横山大観は、
壊れた感覚を時間の流れへと組み込みました。
どちらも、破壊を否定しなかった。
同時に、破壊だけで終わることもしなかった。
そこには、壊すこととは別の、もう一つの勇気があります。
6. 受け継ぐ美
ルノワールの態度は、
色彩と身体性を結び直す視線として、二十世紀絵画へと受け継がれていきました。
横山大観の仕事は、
日本画が断絶せずに生き延びるための、静かな支えとなります。
どちらも、派手な革命ではありません。
しかし、壊れたものを渡すという行為によって、美は歴史のなかに居場所を得ました。
7. 同じ時代に生きた、四つの生き方
彼らは皆、同じ時代に生きていました。
世界の輪郭が揺らぎ、それまで確かだと思われていた見え方が、壊れ始めた時代です。
モネは、壊すことを徹底して生きました。
菱田春草は、壊れた地点に立ち会い、その行方を見る前に時間が尽きました。
ルノワールは、壊れたものと社会のあいだに立ち、
横山大観は、壊れて生まれた感覚を、次の時代へと渡しました。
同じ問いに触れながら、生き方だけが、違っていたのです。
8. 引き受けることの重さ
その「受け渡し」は、必ずしも美しく見える選択ではありません。
妥協に見えることもある。
権威への迎合と誤解されることもある。
それでも、誰かが引き受けなければ、
壊れた感覚は失われてしまいます。
その重さを背負ったこと自体が、ルノワールと横山大観の、
静かな強さでした。
9. 結語|美と、どう生きたか
モネと菱田春草が、世界が溶ける瞬間を切り開いたあと、
ルノワールと横山大観は、その場所に立ち続けました。
彼らは皆、
同じ時代に生き、
同じ破壊に触れていました。
ただ、その破壊と、どう生きたかが違ったのです。
美とは、生み出された瞬間だけで決まるものではありません。
その美とともに、どのように生きたのか。
その問いは、今も、私たちの前に残されています。
他の双響シリーズについては、こちらでまとめています。
(双響|Soukyō シリーズ一覧)


