王家が去ったあと、美術はどこへ行ったのか
前回は、フランス革命とナポレオンの時代を通して、ヨーロッパの王冠が国ごとに違う運命をたどったことを見てきました。
オーストリア・ハプスブルク家は、古い神聖ローマ帝国を失いながらも、別の帝国として生き残りました。
スペイン王家は、王冠を保ちながらも、ナポレオンの介入によって大きく揺らぎました。
フランスではブルボン家が倒れ、王家の血を引かないナポレオンが皇帝となりました。
イギリスでは王政は倒れず、君主は議会政治と世論の中で、近代的に「見られる存在」へと変わっていきました。
けれど、王家の運命が変わったあとも、王家が作らせ、集め、宮殿に飾ってきた美術は残りました。
――王や王妃の肖像。
――宮廷を飾った神話画。
――信仰と正統性を示した宗教画。
――外交や婚姻によって国境を越えた作品。
――古代世界への憧れを示す彫刻や工芸品。
それらは、もともと私たちのために集められたものではありません。王家の権威を示し、宮廷を飾り、限られた人々だけが見ることのできる美術でした。
では、その美術は、どのようにして現在の美術館へ受け継がれたのでしょうか。
最終回では、ルーヴル美術館、プラド美術館、ウフィツィ美術館、ウィーン美術史美術館、そしてイギリスのナショナル・ギャラリーとロイヤル・コレクションを通して、王家の美術が公共の美術へ変わっていく過程を見ていきます。
王宮の扉が、革命によって開かれる
ルーヴル美術館
王家の美術が市民の前に現れる物語として、最も象徴的なのがルーヴル美術館です。
ルーヴル美術館は、最初から美術館として建てられた場所ではありません。
中世には要塞として築かれ、その後はフランス王たちの宮殿として拡張されました。フランソワ1世はルーヴルをルネサンス様式の宮殿へと変え、イタリアから芸術家を招きました。フランス王家が集めた絵画や彫刻も、宮廷文化の中で蓄積されていきます。
しかし、王家のコレクションは、長いあいだ誰もが自由に見られるものではありませんでした。
作品は王の所有物であり、宮殿は王権の空間でした。
その関係を大きく変えたのが、フランス革命です。
王政が倒れると、ルーヴル宮殿と王室コレクションは、王家だけのものではなくなっていきました。
ここで起きたのは、単なる所有者の交代ではありません。
王の権威を示すために集められた美術が、「国家」や「国民」の歴史を示すものへと読み替えられたのです。
――かつて王だけが所有した名作を、市民が見る。
――かつて宮廷儀礼が行われた空間を、市民が歩く。
――かつて王権を飾った美術を、市民が比較し、学び、批評する。
ルーヴル美術館の誕生は、美術を見る主体が、王から市民へ移っていくことを象徴していました。ただし、それがその瞬間から完全に平等な空間になったわけではありません。
――革命、ナポレオンによる征服と作品移送、王政復古、帝政、共和政。
ルーヴル美術館の展示は、フランスという国家の政治的な変化とともに、何度も組み替えられていきます。それでも、王宮だった建物が公共の美術館となったことの意味は大きいものでした。
――王の宮殿は、国民が歴史を見る場所になりました。
王家の趣味が、スペイン美術の顔になる
プラド美術館
ルーヴル美術館が革命によって王宮から美術館へ変わったのに対して、スペインのプラド美術館は、少し違う道をたどりました。
現在のプラド美術館の基礎には、スペイン王家が長い時間をかけて築いた王室コレクションがあります。その収集は、16世紀のカール5世の時代に大きく発展し、その後のハプスブルク家、ブルボン家の君主たちによって受け継がれました。
プラドの建物は、もともとカルロス3世の命令により、自然史関係の施設として計画されました。しかし、のちにフェルナンド7世と王妃マリア・イサベルの意向によって、王立絵画彫刻美術館として使われることになります。1819年の開館時には、王室の宮殿や離宮から集められた作品が展示されました。
ここで重要なのは、スペイン王家が何を好み、誰を重用したかが、そのまま現在のプラド美術館の個性につながっていることです。
――ティツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ。
彼らの作品がプラドに豊富に残るのは、単に美術史上重要だからではありません。スペイン王たちが彼らを重用し、作品を注文し、収集したからです。
第2回で見たカール5世とティツィアーノ。
第3回で見たベラスケス《ラス・メニーナス》。
第6回で見たゴヤ《カルロス4世の家族》。
このシリーズに登場したスペイン王家の美術は、現在ではプラド美術館の中核を形づくっています。
王家の個人的な趣味が、のちに「スペイン美術を代表するコレクション」として見られるようになったのです。
そこには、少し不思議な逆転があります。
王のために描かれた作品が、いまでは王を観察するための作品になっている。宮廷の威厳を示すための肖像が、いまでは王家の不安や人間らしさを読み取るために見られている。
王家が作品を所有していた時代には、見る者は王を仰ぎました。
美術館の中では、見る者は王の姿を比較し、歴史の中へ位置づけます。
――王家が集めた美術は、王家そのものを読み解く資料になったのです。
画像:プラド美術館、マドリード/Photo: Gryffindor/Public domain
王朝の財産が、都市の遺産になる
ウフィツィ美術館
フィレンツェのウフィツィ美術館は、ルーヴル美術館ともプラド美術館とも違う形で、王家と美術館を結びつけています。
ウフィツィという言葉は、「事務所」を意味します。美術館の建物は元々16世紀に、トスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチの命令によって、フィレンツェの行政機関を集めるために建てられました。
つまりウフィツィは、もともと美術館でも王宮でもなく、メディチ家が都市の政治権力を集中させるための建物でした。設計を担ったのはジョルジョ・ヴァザーリです。
やがて建物の上階には、メディチ家が集めた絵画、彫刻、古代美術、珍しい工芸品が並べられるようになります。
それは、メディチ家の教養と権力を示す空間でした。
第1回で見たボッティチェリやミケランジェロの時代から、メディチ家は美術を使って、自分たちがフィレンツェの文化を導く存在であることを示してきました。
しかし、18世紀になるとメディチ家の直系は終わります。
最後のメディチ家の人物となったアンナ・マリア・ルイーザは、家のコレクションがフィレンツェから持ち出されないよう、1737年の「家族協定」によって、絵画、彫刻、図書、宝石などを都市に留めました。
それらは国家の装飾となり、公衆の利益に役立ち、外国人の関心を引くものとして残されました。ここには、ルーヴル美術館のような革命による没収とは違う物語があります。王朝が滅びる前に、その最後の相続者が、一族の財産を都市の遺産へ変えたのです。
そして1769年、ハプスブルク=ロレーヌ家のトスカーナ大公ピエトロ・レオポルドによって、ウフィツィは近代的な意味で公共に開かれた美術館となりました。
メディチ家が集めた美術を、メディチ家の後を継いだハプスブルク=ロレーヌ家が公開する。ここでも、王朝の交代と美術館の誕生はつながっています。
ウフィツィ美術館で私たちが見るボッティチェリ《春》や《ヴィーナスの誕生》は、単にルネサンスを代表する名画だからそこにあるのではありません。メディチ家が美術を収集し、最後の相続者がそれをフィレンツェに留め、次の王朝が公共へ開いたから、現在も同じ都市で見ることができるのです。
――一族の宝は、都市の記憶になりました。
帝国の記憶を収める宮殿
ウィーン美術史美術館
ハプスブルク家のコレクションは、ウィーン美術史美術館に受け継がれました。
ハプスブルク家は、絵画だけを集めた王朝ではありません。
――古代エジプトやギリシア・ローマの遺物。
――甲冑や武器。
――金銀、宝石、象牙、珊瑚などを使った工芸品。
――珍しい自然物や、世界各地からもたらされた品々。
それらを集めた「クンストカンマー」とは、絵画だけでなく、宝石、工芸品、武器、古代遺物、珍しい自然物などを集めた王侯貴族の収集室です。世界の秩序と驚異を一つの空間に集めることで、所有者の富や教養、支配の広がりを示しました。
王家が美術を集めることは、単なる趣味ではありませんでした。
世界中の珍しいものを所有することは、自分たちの支配が広い世界へ及んでいることを示す行為でもありました。
そして19世紀、ハプスブルク帝国は、その膨大なコレクションを展示するための巨大な美術館を建設します。ウィーン美術史美術館の建設は1871年に始まり、1891年に一般公開されました。建築を担ったのはゴットフリート・ゼンパーとカール・フォン・ハーゼナウアーです。
ここでは、王宮がそのまま美術館になったのではありません。
ハプスブルク家のコレクションを収めるために、美術館そのものが新しい宮殿のように建てられました。
展示されているのは、作品だけではありません。
――豪華な階段、大理石の柱、天井画、巨大なドーム。
建物そのものが、ハプスブルク家の文化的な権威を語っています。しかし、その扉は王侯や宮廷人だけに向けられたものではありませんでした。
――帝国が集めた美術を、広い公衆に見せる。
そこには、王家の所有物を公共へ開くという近代美術館の理念と、帝国の栄光を国民に見せるという政治的な意図が重なっています。
第6回で見たように、ハプスブルク家は古い神聖ローマ帝国を失いながらも、オーストリア帝国、さらにオーストリア=ハンガリー帝国として生き残りました。ウィーン美術史美術館は、その王朝が集めた世界を、一つの壮大な建物に収めた場所です。
――帝国はのちに消えても、帝国が集めた世界は美術館に残りました。
王の美術と、国民の美術が並んで残る
ロイヤル・コレクションとナショナル・ギャラリー
イギリスでは、王家の美術が公共へ開かれる過程も、ほかの国とは異なっていました。ロイヤル・コレクションが、王室と結びついたまま残り続けたのです。
現在のロイヤル・コレクションは、絵画、素描、書物、彫刻、家具、宝飾品など100万点を超える作品からなり、過去約500年のイギリス王や女王の趣味を伝えています。
作品の多くは、現在も王宮や城の中に置かれています。
つまりイギリスでは、王家が残ったように、王家のコレクションも完全には解体されなかったのです。
一方で、19世紀には国民のためのナショナル・ギャラリーが誕生します。
ロンドンのナショナル・ギャラリーは1824年、議会の決定によって、銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインの相続人から38点の絵画を国家が購入したことを出発点としました。
ヨーロッパの多くの美術館とは異なり、王室コレクションを国有化して成立したのではなく、最初から公衆のための美術館として設けられたのです。
ここには、イギリス王政のあり方がそのまま現れています。
――王家も残り、王室コレクションも残る。
――その一方で、王家とは別に、国家と市民のための美術館が作られる。
王の美術と、国民の美術が並んで存在するのです。
これは、王冠が消えるのではなく、議会政治の中で役割を変えて生き残ったイギリスらしい形でした。
第6回で見たジョージ4世の肖像も、ロイヤル・コレクションに残されています。
王家の肖像は、いまも王家の歴史を伝える作品でありながら、展覧会や公開施設を通して、多くの人々が見る美術にもなっています。
――王家の所有と公共性は、必ずしもどちらか一方だけではありません。
王家は、美術館の中で見られる存在になった
こうして見ると、ヨーロッパの美術館は、すべて同じ方法で生まれたわけではありません。
ルーヴル美術館では、革命によって王宮と王室コレクションが国民の美術館へ組み替えられました。
プラド美術館では、スペイン王家の収集が王立美術館として公開され、のちに国を代表する美術館となりました。
ウフィツィ美術館では、最後のメディチ家の相続者が一族の財産をフィレンツェに留め、次の王朝が公共へ開きました。
ウィーン美術史美術館では、ハプスブルク家の帝国コレクションを収めるために、巨大な美術館そのものが建てられました。
イギリスでは、王室コレクションが残る一方で、それとは別に国民のためのナショナル・ギャラリーが作られました。
王家は、近代美術館の誕生によって完全に消えたわけではありません。むしろ、美術館の中に残されました。
王の肖像は、王を崇拝するための像から、王権を考えるための作品へ変わりました。
宮廷の神話画は、権力を飾る装飾から、時代の価値観を読み解く資料へ変わりました。
王家の収集品は、所有者の富を示す宝から、美術史を学ぶための文化遺産へ変わりました。
作品そのものが変わったわけではありません。変わったのは、それを見る場所と、見る人です。
宮殿の中では、作品は王家の権威に従属していましたが、美術館の中では、見る者が王家を歴史の中へ置き直します。
かつて王が市民を見下ろした肖像の前で、いまでは市民が王を見返しているのです。
王家のための美術を、私たちはどう見るのか
全7回にわたって、王家と美術の関係をたどってきました。
第1回では、王冠を持たないメディチ家が、ルネサンス美術によって都市の権力と教養を示しました。
第2回では、カール5世、宗教改革、イングランド王権、教皇庁を通して、美術が信仰と正統性をめぐる争いに使われる姿を見ました。
第3回では、ルーベンス、ベラスケス、ヴァン・ダイクを通して、王妃の神話、宮廷の視線、揺らぐ王権を見ました。
第4回では、ルイ14世とヴェルサイユ宮殿を通して、王の身体と宮殿空間が、国家の権威そのものになる時代を見ました。
第5回では、ロココ、ポンパドゥール夫人、マリー・アントワネットを通して、華やかな宮廷イメージが社会の矛盾を覆いきれなくなる姿を見ました。
第6回では、オーストリア、スペイン、フランス、イギリスの王冠が、倒れ、傷つき、形を変え、それぞれ異なる近代へ向かう姿を見ました。
そして最終回では、王家が残した美術が、各国の美術館へ受け継がれていく姿を見てきました。
ヨーロッパの美術館に並ぶ名作は、最初から「世界の名画」として存在したわけではありません。誰かが注文し、誰かが所有し、誰かが宮殿に飾り、誰かが相続し、誰かが没収し、誰かが都市や国家へ残しました。
それぞれの作品の背後には、王家の血脈、婚姻、信仰、外交、戦争、趣味、野心があります。それを知ると、美術館の見え方も少し変わります。
そこには、かつてヨーロッパを動かした王家の選択と記憶が残っています。
王家は、美術によって自分たちを永遠の存在にしようとしました。けれど、王家の政治的な力は、永遠ではありませんでした。
それでも、美術は残りました。
王家のために作られた美術は、王家だけのものではなくなりました。
いま、その前に立つのは私たちです。
王を仰ぐためではなく、王家が何を望み、何を恐れ、何を未来へ残そうとしたのかを見るために。
――王家は去りました。
けれど、王家の物語は、美術館の中に残されています。
図版情報
ユベール・ロベール《ルーヴル大画廊改造計画》1796年、ルーヴル美術館蔵、パリ/Public domain
ヨハン・ゾファニー《ウフィツィのトリブーナ》1772〜78年頃、ロイヤル・コレクション蔵、ウィンザー城/Public domain
ウィーン美術史美術館館内、ウィーン/Photo: C1815/Public domain
《ナショナル・ギャラリーから見たトラファルガー広場》1890〜1900年頃、米国議会図書館蔵/Public domain
ユベール・ロベール《ルーヴル大画廊》1801〜1805年頃、ルーヴル美術館蔵、パリ/Public domain


