ロココ、ポンパドゥール夫人、マリー・アントワネット、そして崩れはじめる宮廷のイメージ
前回は、ルイ14世とヴェルサイユ宮殿を通して、王権が空間そのものになる時代を見ました。
リゴー《ルイ14世の肖像》では、王の身体が国家の顔になりました。ヴェルサイユ宮殿《鏡の間》では、建築、庭園、絵画、鏡、光、儀礼がひとつになり、王権を体験させる巨大な装置が作られました。
しかし、完成したものは、やがて揺らぎはじめます。
18世紀のフランス宮廷では、美術の表情が大きく変わっていきました。
重厚な王権のイメージは、しだいに軽やかで、甘く、私的な美へと移っていきます。壮大な歴史画や神話的な王権表象のかわりに、優雅な室内、恋愛、遊び、装飾、柔らかな色彩が好まれるようになりました。
この美術を、ロココと呼びます。
ロココという言葉は、貝殻や小石を使った装飾を意味する「ロカイユ」に由来するとされており、曲線的で、軽やかで、装飾的な美しさを特徴とする様式です。
ロココの美は、華やかです。繊細で、優雅で、明るく、見る者を楽しませます。
けれど、その軽やかさの奥には、王家と宮廷の変化がありました。
王権はなお強大でした。宮廷もまだ輝いていました。しかし、その輝きはもはやルイ14世の時代のように、国家の中心として堂々と立つ光ではありません。
――それは、閉じられた宮廷の中で楽しまれる、洗練された光でした。
第5回では、ポンパドゥール夫人、フラゴナール《ぶらんこ》、マリー・アントワネット、そしてプチ・トリアノンを通して、王家のイメージがどのように甘くなり、親しみやすくなり、そして危うさを秘めていったのかを見ていきます。
宮廷の趣味を動かした女性
フランソワ・ブーシェ《ポンパドゥール夫人の肖像》
18世紀フランスの宮廷文化を考えるうえで、ポンパドゥール夫人は欠かせない存在です。
彼女はルイ15世の公妾として知られていますが、単に王の愛人だったわけではありません。宮廷の趣味、芸術、装飾、文学、哲学に深く関わり、18世紀フランス文化の方向性に大きな影響を与えました。
フランソワ・ブーシェの《ポンパドゥール夫人の肖像》を見ると、彼女がどのような存在として描かれたのかがよくわかります。
――豪華な衣装。
――柔らかな色彩。
――優雅なポーズ。
周囲には書物や調度品が置かれ、彼女がただ美しい女性としてではなく、教養と趣味を持つ人物として表されています。
ここには、ルイ14世の肖像にあったような圧倒的な王権の威圧感はありません。
かわりにあるのは、洗練された私的空間です。
ポンパドゥール夫人のイメージは、宮廷美術が大きく変化していたことを示しています。この時代、美術は王の身体を国家の象徴にするものから、宮廷の趣味や感性を演出するものへと変わっていきました。
そこでは、権力はまだ存在しています。
けれど、その権力は、剣や王冠によって直接示されるのではありません。
――優雅な衣装。
――室内装飾。
――書物。
――柔らかなまなざし。
――洗練された姿勢。
権力は、そうした美しいものの中に隠されています。
ポンパドゥール夫人は、王家そのものではありません。しかし、彼女は宮廷の趣味を動かし、王権の周辺にある文化の顔になりました。このことは、王家の美術が変質していることを示しています。
ルイ14世の時代、美術は王を中心に世界を秩序づけるためにありましたが、18世紀になると、美術は宮廷の内部で、より私的で、優雅で、装飾的な楽しみとして花開いていきます。
王権のイメージは、まだ輝いています。しかしその輝きは、国家を圧倒する光から、宮廷の室内を照らす柔らかな光へと変わっていったのです。
遊びとして描かれる宮廷の欲望
ジャン=オノレ・フラゴナール《ぶらんこ》
ロココ美術を象徴する作品として、ジャン=オノレ・フラゴナールの《ぶらんこ》があります。
庭園の中で、若い女性がぶらんこに乗っています。ピンク色のドレスはふわりと広がり、片方の靴が宙へ飛んでいます。画面の下には、女性を見上げる若い男性が隠れています。
この作品は、明るく、軽やかで、どこか冗談のようです。
けれど、そこに描かれているのは単なる遊びではありません。
――恋愛。
――欲望。
――秘密。
――覗き見る視線。
宮廷社会の楽しみと危うさが、甘い色彩と柔らかな筆づかいの中に包まれています。
ここには、コケットリーと呼ばれるような、相手を惹きつけ、焦らし、遊ぶような恋愛の身ぶりも見えます。あからさまな欲望ではなく、洗練された戯れとして欲望を見せるところに、ロココの宮廷的な感覚があります。
第4回で見たヴェルサイユ宮殿では、庭園は王を中心に広がる秩序を示していました。
しかし《ぶらんこ》の庭園は、もはや国家の秩序を示す場所ではありません。
そこは、恋と遊びのための舞台です。
自然は整えられています。空間は美しく演出されています。けれど、その中心にいるのは王ではありません。そこにいるのは、恋愛を楽しむ人々です。
この変化は大きな意味を持っています。
宮廷美術は、王権の威厳を示すものから、宮廷人たちの快楽や趣味を描くものへと移っていきました。
もちろん、ロココ美術は単に軽薄な美術ではありません。
そこには、洗練された色彩感覚、装飾性、構図の巧みさ、見る者を楽しませる演出があります。フラゴナールの画面は、軽やかであると同時に、非常に高度に計算されています。
しかし、その軽やかさこそが、18世紀宮廷美術の特徴でもあり、それは、私的な楽しみ、恋愛、遊戯、洗練された社交の世界へと入り込んでいきました。
そして、その甘さは、やがて批判の対象にもなっていきます。
宮廷は優雅であるほど、民衆の生活から遠く見える。美しければ美しいほど、王家と宮廷が社会の現実から遠ざかっていく姿にも重なって見えるのです。
王妃はどのように見られたのか
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン《マリー・アントワネットと子どもたち》
18世紀末、フランス王家のイメージをめぐって、もっとも重要な人物のひとりがマリー・アントワネットです。
彼女はオーストリア・ハプスブルク家の女帝、マリア・テレジアの娘であり、フランスへ嫁ぎ、ルイ16世の王妃となりました。
王家にとって、結婚は個人の恋愛ではありません。国と国を結び、血脈をつなぎ、王朝の正統性を支える政治的な行為でした。マリー・アントワネットの存在もまた、フランスとオーストリアを結ぶ婚姻政策の中にありました。
しかし、彼女はしだいに批判の対象となっていきます。
外国出身の王妃であること、浪費、贅沢、宮廷生活への反感。さまざまなイメージが彼女に重ねられました。
ここで重要になるのが、肖像画です。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、マリー・アントワネットの肖像を数多く描いた画家です。彼女の《マリー・アントワネットと子どもたち》では、王妃は華やかな宮廷人としてではなく、母として描かれています。
画面の中のマリー・アントワネットは、子どもたちに囲まれています。
豪華な衣装をまといながらも、そこでは王妃の母性が強調されています。王家の後継者を育てる母、家族を支える女性、国家の未来を抱える存在として、彼女は描かれています。
これは、王妃のイメージを立て直すための肖像でもありました。
――王妃は贅沢な女性ではない。
――王妃は母である。
――王妃は王家の未来を守る存在である。
そのように見せるために、肖像画が必要とされたのです。
第3回で見たルーベンスは、マリー・ド・メディシスの人生を神話に変えましたが、ヴィジェ=ルブランは、マリー・アントワネットを母として描き、王妃のイメージを救おうとしました。
どちらも、女性の王族をめぐるイメージ戦略ですが、両者の置かれた状況は大きく違います。
17世紀のマリー・ド・メディシスは、神話の力によって王妃としての権威を飾ることができましたが、18世紀末のマリー・アントワネットは、もはや神話だけでは救えない時代に生きていました。王家を見るまなざしは、変わっていたのです。
それは社会の不信や怒りを完全に消すことはできませんでした。
私的な空間が、王妃を危うくする
マリー・アントワネットとプチ・トリアノン
マリー・アントワネットのイメージを考えるうえで、もうひとつ重要なのが、ヴェルサイユ宮殿の敷地内にあるプチ・トリアノンです。
プチ・トリアノンは、壮大な儀礼のための宮殿というよりも、王妃が宮廷の重々しい形式から離れ、より私的で親密な時間を過ごすための場所として知られています。
そこでは、王妃は遠くから仰ぎ見られる存在というより、自然や庭園、親しい人々に囲まれた一人の女性として振る舞うことができました。
このことは、18世紀末の王家のイメージを考えるうえで重要です。
ルイ14世のヴェルサイユでは、王は遠く、偉大で、近づきがたい存在として演出されました。
――王を見ること、
――王に見られること。
そのすべてが政治的な意味を持っていました。
しかしマリー・アントワネットの時代になると、王家には親しみやすさや自然さ、家庭的なイメージも求められるようになります。
ところが、その親しみやすさは、王家の神聖さや威厳を弱める危険も持っていました。
王妃が豪華すぎれば、贅沢だと批判されます。しかし宮廷儀礼から離れ、自然で私的な姿を見せようとすれば、今度は王妃らしくないと批判されます。
つまり、王家のイメージは、すでにどちらへ進んでも傷つきやすいものになっていました。
プチ・トリアノンは、マリー・アントワネットにとって安らぎの場所だったかもしれません。けれど社会のまなざしの中では、それは王妃が宮廷や国家の責任から離れ、私的な楽しみに閉じこもっている場所のようにも見えてしまいました。
ここに、王家の黄昏があります。
王妃を人間らしく見せようとすると、王妃としての距離が失われる。
王妃として威厳を保とうとすると、民衆から遠い存在に見える。
この揺れの中で、王家のイメージは少しずつ崩れていきました。
王家の黄昏と、イメージの限界
第5回で見てきた美術は、どれも華やかで美しいものです。
ポンパドゥール夫人の肖像には、宮廷文化の洗練があります。
フラゴナール《ぶらんこ》には、ロココ美術の軽やかな魅力があります。
ヴィジェ=ルブランのマリー・アントワネット像には、王妃のイメージを守ろうとする切実さがあります。
そしてプチ・トリアノンには、王妃が求めた私的な空間と、それをめぐる危うさがあります。
しかし、その美しさの奥には、王家の黄昏が見えています。
宮廷美術は、王権の威厳を示すものから、優雅な趣味や私的な楽しみを描くものへと変わりました。
王妃の肖像は、神話的な権威だけでなく、母性や親しみやすさを示そうとしましたが、それでも王家への不信を消すことはできませんでした。
――美術は、権力を輝かせることができます。
――不安を包み、威厳を作り、親しみやすさを演出することもできます。
しかし、美術だけで社会の矛盾を消すことはできません。18世紀末、王家のイメージはますます難しいものになっていきます。
――華やかであれば、贅沢に見える。
――親しみやすければ、威厳が失われる。
――母として描かれても、政治的な不信は残る。
王家はまだ美しく描かれていました。けれど、その美しさは、もはや王権の安定を保証するものではありませんでした。
次回、第6回では、フランス革命とナポレオン、そしてゴヤを通して、王の身体が中心だった美術から、民衆、革命家、皇帝、戦争の犠牲者たちが画面に現れる時代を見ていきます。
図版情報
フランソワ・ブーシェ《ポンパドゥール夫人の肖像》アルテ・ピナコテーク蔵、ミュンヘン/Public domain
ジャン=オノレ・フラゴナール《ぶらんこ》ウォレス・コレクション蔵、ロンドン/Public domain
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン《マリー・アントワネットと子どもたち》ヴェルサイユ宮殿蔵、ヴェルサイユ/Public domain
《プチ・トリアノン》ヴェルサイユ宮殿、ヴェルサイユ/Public domain


