市民でたどるヨーロッパ近世美術史⑤|静物・風景・都市景観

世界を所有するまなざし

前回は、オランダ黄金時代の絵画を通して、美術が市民の生活へ入り込んでいく様子を見ました。

レンブラントは都市を守る市民や医師たちを描き、フランス・ハルスはひとりの人物の表情を捉えました。ヤン・ステーンやデ・ホーホ、テル・ボルフ、フェルメールの作品では、絵画の舞台はさらに家の中へ入り、家族や仕事、手紙を書く時間、牛乳を注ぐという何でもない日常までが主題になりました。

けれど、市民の家の中にあったのは人間だけではありません。

テーブルの上にはパンや果物、銀器やガラス器があり、花瓶には花が活けられ、壁には地図が掛けられていました。窓の外には土地が広がり、その先には船の行き交う海があります。

17世紀のオランダでは、教会の内部や一頭の牛まで、それまで絵画の背景に置かれていたものが、それ自体で見るに値する主題になっていきました。

人間が画面からいなくなっても、絵画は成立するようになります。では、人々は何を見ていたのでしょうか。

今回は、静物画、風景画、海景画、そして都市景観を通して、市民社会の視線が人間の暮らしから、その周囲にある世界へ広がっていく様子を見ていきます。

テーブルの上のものを、じっと見る

まずは、もう一度市民の家の中から始めます。
ただし、今度の主役は人間ではありません。テーブルの上に置かれたものです。

ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ《金杯のある静物》

ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ《金杯のある静物》テーブルの上には、金属の器、ガラス、パン、果物などが置かれています。

人は描かれていません。けれど、誰かが少し前までそこにいたような気配があります。

器には光が反射し、ガラスは透き通り、パンには乾いた表面があります。レモンの皮は薄くむかれ、テーブルクロスには細かな皺が寄っています。

ヘーダが描いているのは、ただ「食べ物や食器がある」ということではありません。

金属の冷たさやガラスの透明さ、パンの固さや果物の酸味まで、見るだけで想像できそうなほど細かく描き分けています。

第4回では、人間の顔や身体、暮らしを見てきました。ここでは、その視線が物へ向かいます。

何を持ち、何を食べ、どのような器を使って暮らしているのか。身の回りにある物もまた、市民の生活を映すものになりました。

そして、それらをじっと見ること自体が、絵画の主題になっていったのです。

持っているものは、いつまで自分のものなのか

ところが、静物画を見ていると、豊かさだけではないものが見えてきます。
テーブルの上に並ぶものは、永遠には残りません。食べ物は傷み、花は枯れ、器もいつか壊れます。そして、それを所有している人間にも終わりがあります。

ピーテル・クラース《ヴァニタス静物》

ピーテル・クラース《ヴァニタス静物》画面には、髑髏や時計、消えた灯火など、時間や死を思わせるものが置かれています。

こうした静物画は、「ヴァニタス」と呼ばれる主題と結びついています。

人間は富を得て、知識を身につけ、美しいものを集めることができます。けれど、それらを永遠に持ち続けることはできません。髑髏は死を、時計は過ぎていく時間を暗示しています。

静物画は、所有する喜びを描くと同時に、その所有がいつか失われることも描きました。

市民社会が豊かになり、家の中に多くの物が集まるようになったからこそ、「それは、いつまで自分のものなのか」という問いもまた、絵画の中に現れてきたのです。

テーブルの上に、世界が集まる

同じ静物画でも、さらに豪華な世界があります。

ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム《宝石箱と果物のある豪華な静物》

――果物、花、ガラス器、宝石箱、高価な品々。

ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム《宝石箱と果物のある豪華な静物》画面には、豊かなものがあふれるように並べられています。ヘーダの静物が落ち着いた食卓を見せたのに対し、デ・ヘームの画面はもっと華やかです。

ここで描かれているのは、単なる物ではありません。

珍しいものを手に入れられる富があり、その価値を理解する知識があり、さらにそれらを遠い土地から運んでくる交易網があります。

17世紀のネーデルラントでは、海運と交易を通して世界各地からさまざまな品物がもたらされました。家の中に置かれた一つの果物や器の向こうに、港があり、船があり、遠い土地があります。

小さな静物画の中に、世界が入り込んでいるのです。

デ・ヘーム自身も、ユトレヒトに生まれながら、のちには南ネーデルラントのアントワープでも活動しました。

政治的にネーデルラントが南北へ分かれたあとも、画家や美術の様式、人や物の移動までが国境で止まったわけではありません。第3回で見たネーデルラントのつながりは、ここでも続いています。

ただし、この豊かさには別の側面もあります。
17世紀のオランダ共和国が築いた世界規模の交易は、植民地支配や奴隷貿易とも無関係ではありませんでした。美しい静物画の表面だけを見れば、そこには果物や銀器が輝いています。

けれど、その物がどこから来たのか、その富がどのような世界のつながりによって生まれたのかまで考えると、静物画は急に大きな歴史へつながっていきます。

テーブルの上は、小さな世界地図でもあったのです。

視線が、家の外へ広がる

ここまで、テーブルの上を見てきました。今度は窓の外へ出てみましょう。
17世紀オランダでは、土地そのものも重要な絵画の主題になりました。

ヤーコプ・ファン・ロイスダール《前景に漂白場のある北西からのハールレムの眺望》

ヤーコプ・ファン・ロイスダール《前景に漂白場のある北西からのハールレムの眺望》画面の大半には、大きな空が広がっています。その下には、低く伸びる土地と、遠くに見えるハールレムの街があります。前景には、布を漂白するための広い場所が見えます。

一見すると、静かな田園風景です。

けれど、ここに描かれている土地は、ただの自然ではありません。人々が働き、物を作り、都市と結びついた土地です。

漂白場では、ハールレム周辺の重要な産業であった布の加工が行われていました。つまりこの風景には、自然と都市、そして人間の仕事が同じ画面に入っています。

この絵画は、王家のために描かれた領土図ではありません。自分たちが暮らし、働いている土地そのものが、眺める対象になっています。

静物画では、家の中に集められた物を見ていました。風景画では、その視線が外へ広がり、自分たちの住む土地そのものへ向かいます。

土地の先には、海がある

オランダ共和国の世界をさらに広げていけば、その先には海があります。
低地の国であるオランダにとって、海は単なる美しい自然ではありませんでした。
船が出入りし、人や商品が動き、遠い世界と都市をつなぐ場所でした。

ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)《凪の海のオランダ船》

ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)《凪の海のオランダ船》穏やかな海に、何隻もの船が浮かんでいます。大きな波が押し寄せる劇的な海ではありません。静かな水面と低い空の下で、帆船が風を待っています。

けれど、この船はただ風景を飾っているのではありません。船を持ち、海を渡ることは、17世紀オランダの社会そのものと深く結びついていました。

――遠い土地から物を運び、港から商品を送り出し、人や情報が海を越えて移動する。

静物画のテーブルに集まっていた世界は、この海を通ってやってきました。

そう考えると、ヘーダやデ・ヘームの静物と、ファン・デ・フェルデの海景画は別々のジャンルでありながら、同じ社会の表と裏にも見えてきます。

市民のテーブルに物が届くまでには、海があったのです。

都市そのものが、持ち帰ることのできる眺めになる

ここでオランダを離れ、18世紀のヴェネツィアへ向かいます。

カナレット《モーロから見たヴェネツィア、大運河入口》

カナレット《モーロから見たヴェネツィア、大運河入口》運河の向こうに、ヴェネツィアの建物が並んでいます。船が行き交い、水面には光が広がり、都市そのものがひとつの眺めとして画面に収められています。

カナレットは、ヴェネツィアを中心にこうした都市景観を数多く描きました。

そして、その重要な買い手となったのが、ヨーロッパ各地からヴェネツィアを訪れたグランドツアーの旅行者たちでした。彼らにとって都市景観画は、旅先の記憶であると同時に、自分がその土地を訪れたことを示す品でもありました。

――旅先で見た都市を、絵として持ち帰る。

現在なら写真を撮る感覚に少し近いかもしれません。
ただし、カナレットの絵は単なる記録ではありません。建物、運河、空、光を整理し、都市がもっとも魅力的に見える眺めとして画面を再構成しています。

ここまで来ると、絵画によって所有されるものは、テーブルの上の果物や銀器だけではありません。自分たちの土地を眺め、海の向こうへ視線を広げ、ついには旅先の都市そのものまで一枚の絵として持ち帰るようになります。

見ることと所有することが、ますます近づいていきます。

17世紀オランダで大きく広がった市民のまなざしは、18世紀になると、旅をし、都市を眺め、その記憶を所有する視線へもつながっていきました。

それでも、時間までは所有できない

ここまで視線は、テーブルの上の物から家の外の土地へ、さらに海を越え、都市全体を眺めるところまで広がってきました。けれど最後に、もう一度、オランダの小さな花瓶へ戻ってみます。

マリア・ファン・オーステルウェイク《装飾的な壺の花》

マリア・ファン・オーステルウェイク《装飾的な壺の花》花瓶から、色とりどりの花があふれています。ヒマワリ、バラ、ケシ、ユリ、アイリスなど、異なる季節に咲く花々が一つの画面に集められています。

現実には、これらすべてが同じ瞬間に満開になるとは限りません。

画家は一本一本の花を観察し、それらを組み合わせることで、現実には存在しないほど豊かな花束を作り上げました。珍しい花を知り、その姿を記録し、美しいものを一つの画面へ集める。ここにもまた、「世界を集める」というまなざしがあります。

しかし、花をよく見てみると、すべてが永遠の美しさを保っているわけではありません。葉には傷みがあり、小さな虫が現れ、美しさの中にすでに変化の気配があります。

花は咲き、やがて枯れます。どれほど富を持っていても、その時間を止めることはできません。

デ・ヘームの豪華な静物には、世界中から集められたかのような豊かさがあり、ロイスダールは土地を描き、ファン・デ・フェルデは海を描き、カナレットは都市そのものを眺めとして画面に残しました。

人間は、たくさんのものを見ることができるようになり、たくさんのものを手に入れることもできるようになりました。けれど、それでも所有できないものがあります。

――時間です。

絵の中の花は枯れません。
だからこそ、現実の花が必ず枯れることを思い出させます。

世界を所有することはできても、時間までは所有できない。

静物画は、そのことまで私たちに見せています。

市民のまなざしが、世界へ広がっていく

第4回では、市民たちが自分たち自身と、その暮らしを見るようになった時代を見ました。第5回では、その視線が人間から少しずつ離れ、周囲の世界へ広がっていきました。

まず、テーブルの上に置かれた物を見ることで、その向こうに富や交易が見えてきました。
さらに視線は家の外へ出て、自分たちが暮らす土地へ向かい、その先にある海へ広がります。
そして18世紀には、旅先の都市そのものまで、一枚の絵として眺め、持ち帰ることができるようになりました。

美術が描く世界は、王や聖人、人間の身体だけではなくなりました。
人々の視線は身近な物から土地へ、土地から海へ、さらに遠い都市へと広がっていきます。

それは、自分たちが暮らす世界そのものを、見るに値するものとして発見していく過程でもありました。

けれど、その豊かさの最後に、花は枯れます。
どれほど多くのものを見ることができても、どれほど多くのものを所有できても、時間だけは止められません。

その矛盾まで含めて、17世紀から18世紀の市民社会は、自分たちを取り巻く世界を絵画の中へ取り込んでいきました。

そして次の時代になると、絵画の中に再び人間が大きく戻ってきます。ただし、今度そこに現れるのは、王や聖人だけではありません。

革命に倒れた人間や、海を漂流する人々、都市で働く人々、地方に暮らす名もない人々までが、大きな画面の中へ入っていきます。

次回は19世紀へ進みます。
市民が絵を買い、世界を見るようになったあと、今度は市民そのものが「歴史」の画面へ入っていきます。

図版情報

ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ《金杯のある静物》アムステルダム国立美術館蔵/Public domain

ピーテル・クラース《ヴァニタス静物》マウリッツハイス美術館蔵、デン・ハーグ/Public domain

ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム《宝石箱と果物のある豪華な静物》マウリッツハイス美術館蔵、デン・ハーグ/Public domain

ヤーコプ・ファン・ロイスダール《前景に漂白場のある北西からのハールレムの眺望》アムステルダム国立美術館蔵/Public domain

ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)《凪の海のオランダ船》アムステルダム国立美術館蔵/Public domain

カナレット《モーロから見たヴェネツィア、大運河入口》ナショナル・ギャラリー・オブ・アート蔵、ワシントンD.C./Public domain

マリア・ファン・オーステルウェイク《装飾的な壺の花》マウリッツハイス美術館蔵、デン・ハーグ/Public domain


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