祈り、注文、流通が動かしたバロック絵画
前回は、ティントレット、エル・グレコ、カラヴァッジョを通して、宗教改革後のヨーロッパで、美術が人間の身体や感情へ近づいていく様子を見ました。
ティントレットは、聖書の出来事を劇場のような空間へ広げました。
エル・グレコは、地上と天上のあいだで揺れる魂を描き、カラヴァッジョは、聖なる出来事を薄暗い日常の中へ引き寄せました。
そこでは、宗教画は教義を説明するだけではなく、見る人をその場へ引き込み、感情を動かすものになっていました。
今回は、その流れを追ってフランドルへ向かいます。
現在のベルギーを中心とする南ネーデルラントでは、17世紀になると、カトリック教会の大きな注文と商業都市の富、画家たちの工房、国際的な市場が重なり合い、豊かな美術が生まれました。
ただ、その世界を見る前に、少しだけ時間を遡ってみます。
まず、この地域を呼ぶ「ネーデルラント」「フランドル」「オランダ」という言葉を整理しておきましょう。
コラム|「ネーデルラント」「フランドル」「オランダ」はどう違う?
フランドル美術やオランダ美術を読んでいると、「ネーデルラント」という言葉が突然出てきます。
しかも、ファン・エイクは「初期ネーデルラント絵画」、ルーベンスは「フランドルの画家」、レンブラントやフェルメールは「オランダの画家」と呼ばれます。
同じような地域の話をしているはずなのに、名前が次々に変わるので、少しわかりにくいところです。
もともと「ネーデルラント」は、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを中心とする低地地方を広く指す言葉でした。ブルッヘ、ヘント、ブリュッセル、アントワープから、デルフト、ライデン、ハールレム、アムステルダムまで、現在では別々の国にあるこれらの都市も、15世紀から16世紀にかけて、ブルゴーニュ家やハプスブルク家の支配のもとで大きな政治圏にまとめられていきました。
そのため、15世紀のヤン・ファン・エイクを「ベルギーの画家」と呼ぶよりも、「初期ネーデルラントの画家」と呼ぶ方が、当時の状況に近くなります。
ところが16世紀後半になると、宗教改革とスペイン・ハプスブルク家への反乱を背景に、この地域は南北へ分かれていきます。
北部諸州ではスペイン・ハプスブルク家への反乱が進み、やがてオランダ共和国が成立します。アムステルダム、ハールレム、ライデン、デルフトなどを中心に独自の美術文化が発展しました。
一方、ネーデルラントの南側はスペイン・ハプスブルク家の支配下に残ります。現在のベルギーにつながるこの地域の美術は、美術史では広く「フランドル美術」と呼ばれることがあります。
ただし、「フランドル」という言葉には少し注意が必要です。本来のフランドル伯領と、17世紀美術史でいう「フランドル美術」の範囲は完全には一致しません。たとえばルーベンスの活動拠点だったアントワープは、歴史的にはブラバント公領に属していました。
それでも美術史では、
南ネーデルラント → フランドル美術
北ネーデルラント → オランダ美術
くらいに整理すると、流れを追いやすくなります。
そして、この南北はまったく別の世界だったわけではありません。
分裂以前から、各都市のあいだでは人や物、知識が行き交い、商業や工房、出版、学問を通じたつながりがありました。
政治や宗教によって境界が生まれても、絵画を見る目や、物を細かく描く伝統、都市を中心に美術が育つ環境まで突然消えたわけではありません。
だから、この連載では、ファン・エイクのネーデルラントからルーベンスのフランドルへ、さらにレンブラントやフェルメールのオランダへと、分断された別々の美術史ではなく、ひとつの地域が枝分かれしていく流れとして見ていきます。
ネーデルラントには、すでに「見る目」があった
まずは少しだけ時間を遡って、15世紀のネーデルラントを見てみましょう。その時代を代表する画家のひとりが、ヤン・ファン・エイクです。
彼はブルゴーニュ公フィリップ善良公に仕えた宮廷画家でしたが、当時のネーデルラント美術を宮廷だけで説明することはできません。ブルッヘやヘントのような商業都市には、商人や職人、教会、都市の有力者が集まり、それぞれが美術を必要としていました。
宮廷と都市、教会と商人の世界が重なっていた時代です。
ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻像》
《アルノルフィーニ夫妻像》では、ひと組の男女が室内に立っています。
豪華な衣服、赤い布に覆われたベッド、木の家具、真鍮のシャンデリア、窓辺の果物。そして奥の壁には、小さな凸面鏡が掛けられています。画面のサイズは82.2 × 60 cmと、決して大きな作品ではありません。けれど、室内に置かれたものは驚くほど細かく描き込まれています。
ファン・エイクが細かく見つめているのは、人物の顔だけではありません。衣服の柔らかさや毛皮の厚み、木や金属の表面、窓から入る光、鏡への映り込みまで、室内にあるものが同じ密度で描かれています。
この作品はかつて結婚式を描いたものとも考えられてきましたが、現在では人物や場面の解釈についてさまざまな議論があります。
ここで注目したいのは、なぜひとつの私的な室内が、これほど丁寧に描かれているのかということです。
人物が何を着て、どんなものに囲まれ、どのような空間に立っているのか。そのすべてが、人物の姿とともに画面を作っています。こうした細部への強い関心は、その後のネーデルラント美術にも繰り返し現れていきます。
人々の暮らしも絵画の主題になる
ファン・エイクから1世紀あまり後、ネーデルラントの絵画には、宮廷でも聖書の物語でもない、人々の日常が大きく入り込んできます。
その代表的な画家が、ピーテル・ブリューゲルです。
ピーテル・ブリューゲル1世《農民の婚宴》
《農民の婚宴》には、大きな納屋のような場所で食事をする人々が描かれています。
長いテーブルを囲んで農民たちが座り、男たちが木の板に載せた料理を運んでいます。壁際には人々が並び、足元では小さな子どもが食事をしています。
宮廷の宴のような華やかさはありませんが、画面には、人の声や食べ物の匂いまで伝わってきそうな生活の密度があります。
ただし、この作品を「農民の暮らしをそのまま記録した絵」と見るだけでは足りません。
こうした農民の生活を描いた作品は、農村の人々だけでなく、都市に暮らす鑑賞者の目にも触れました。そこには、自分とは異なる暮らしを見るという視線も生まれます。
――描かれる人と、その絵を見る人。
宮廷の外へ美術が広がっていくにつれて、この関係も重要になります。人々の日常が絵画の主題になることは、誰かの暮らしが、別の誰かにとって見る対象になることでもありました。
そして彼が活動した16世紀、ネーデルラントそのものも大きく揺れ始めます。
ネーデルラントが南と北に分かれていく
16世紀後半、ネーデルラントでは、宗教改革とスペイン・ハプスブルク家の支配をめぐって激しい対立が続きました。長い戦争を経て、北部ではオランダ共和国が成立し、南部はカトリック世界との結びつきを強く残します。
こうして南北に分かれていったネーデルラントでは、美術を取り巻く環境にも違いが生まれていきます。
もちろん、「南は宗教画、北は市民画」と単純に分けることはできません。南にも市場や商人があり、北にも宗教を主題とした作品はあります。ただ、美術を必要とする人や、作品が置かれる場所の比重は変わっていきました。
南のフランドルでは、カトリック教会による大きな注文が重要な役割を持ち続けました。同時に、アントウェルペンのような商業都市には多くの職人や画家が集まり、作品は都市の外へも運ばれていきます。
その世界を象徴する画家が、ルーベンスです。
フランドルで信仰が巨大な画面になる
ルーベンスは、王家編にも登場した画家です。
そこでは、イタリアの名門メディチ家からフランス王家に嫁いだマリー・ド・メディシスの人生を壮大な神話へ変えた宮廷画家として見ました。
今回は、彼の別の側面を見てみようと思います。
ピーテル・パウル・ルーベンス《キリスト昇架》
現在、アントワープ(アントウェルペン)の聖母大聖堂に置かれている巨大な祭壇画です。
十字架にかけられたキリストの身体が、男たちによって持ち上げられています。
十字架は画面を斜めに横切り、それを押し上げる男たちの腕や脚には力が入っています。キリストの身体にも、木の十字架にも重さがあり、その重さを支えようとする人間の動きが画面全体へ広がっています。
前回見たカラヴァッジョが、聖なる出来事を薄暗い部屋の中へ引き寄せたのだとすれば、ルーベンスは、その身体と感情をさらに大きな空間へ広げました。
この作品を見る人は、遠くから聖書の物語を確認するのではなく、十字架が持ち上げられる瞬間へ巻き込まれていきます。
イギリスの作家ウィーダによる『フランダースの犬』で、主人公ネロが見たいと願い続けていたのも、この《キリスト昇架》と、同じ聖母大聖堂にある《キリスト降架》でした。
物語の中でも、この二作品はただの名画ではありません。憧れの対象であり、教会という空間の中で特別な意味を持つ存在として描かれています。
そして実際、この作品も、もともとは人々の信仰に働きかけるための祭壇画でした。
中央パネルだけでも高さ約4.6メートルあります。これほどの作品を制作するには、画家ひとりの力だけでは足りません。
そこには、工房がありました。
ルーベンス工房という美術システム
ルーベンスは、大きな工房を組織し、多くの助手とともに膨大な注文に応えていました。
彼自身が構想や下絵を作り、それをもとに工房の助手たちが制作を進め、ルーベンス自身が仕上げに筆を入れることもありました。そうした分業によって、大きな祭壇画から肖像画、神話画まで、数多くの作品を生み出すことができました。
そこには、画家の才能だけでなく、材料や人手、注文主との交渉、制作期間、報酬、運搬といった現実の仕事があります。教会の祭壇画は信仰のために作られますが、同時に、注文され、制作され、対価が支払われるものでもありました。
これほど多くの人とお金が動いたのは、それだけ美術が社会の中で必要とされていたからです。
つまり一枚の作品の背後では、注文から制作、支払い、運搬まで、多くの人とお金が動いていました。
ルーベンスの作品は、華麗なバロック絵画であると同時に、フランドルの都市にあった注文、制作、労働、流通の仕組みによって支えられていたのです。
食卓では、一夜だけの王が笑う
ルーベンスの巨大な祭壇画から、もう少し生活に近い場所へ移ります。
同じアントワープで活動したヤーコプ・ヨルダーンスです。
ヤーコプ・ヨルダーンス《豆の王様》
この作品では、人々が食卓を囲んで祝宴を楽しんでいます。
酒を飲み、歌い、笑う人々の表情は大きく動き、画面全体に賑やかな空気が広がっています。子どももいれば、年老いた人もいて、宮廷の宴とはまったく違う人間の姿が描かれています。
この祝宴で選ばれる「王様」は、本物の王ではありません。菓子の中に隠された豆を引き当てた人物が、その宴の「王」になります。
王家編で見てきた王の肖像では、王は特別な存在として高く遠く描かれていました。
それに対してヨルダーンスの食卓では、「王様」は人々と同じ場所で酒を飲み、笑い声の中にいます。そこに政治的な反王権の主張を見る必要はありません。
むしろ、人々が日常の祝祭の中で、王という役割そのものを遊びに変えているところがおもしろいのです。
そしてヨルダーンスの画面では、理想化された身体よりも、食べ、飲み、笑う人間の生活そのものが前に出ています。
フランドルのバロックには、教会の巨大な祭壇画だけでなく、こうした日常の賑わいを描く世界もありました。
商人も、自分の「見られ方」を選ぶ
アンソニー・ヴァン・ダイクも、王家編と市民編の両方に登場する画家です。
王家編では、チャールズ1世を優雅で高貴な王として描いた宮廷画家として見ました。
けれど、ヴァン・ダイクの肖像術を必要としたのは王侯だけではありません。
アンソニー・ヴァン・ダイク《ルーカス・ファン・ウッフェルの肖像》
ルーカス・ファン・ウッフェルは、ヴェネツィアで活動した裕福なフランドル商人でした。
ヴァン・ダイクは、彼を単に財産を持つ人物として描いてはいません。
周囲には、製図器具や楽器、古代彫刻、素描、天球儀などが置かれており、それらは、商売だけでなく、学問や芸術にも関心を持つ人物であることを示しています。
肖像画は、顔や姿を記録するだけではありません。
どのような人間として見られたいのかを示すこともできます。
――商人として成功しただけではなく、世界を知り、美術を理解する教養ある人物として見せたい。
ヴァン・ダイクの肖像には、そうした自己表現が読み取れます。
第1回で見たホルバイン《大使たち》にも、地球儀や楽器、科学器具が描かれていました。
人間の姿だけではなく、その人が何を知り、何を持ち、どのような世界とつながっているのかまでが、肖像の一部になっていきます。
美術が、家の中へ向かう前に
フランドルでは、教会の巨大な祭壇画から、人々が騒ぐ食卓、都市で成功した商人の肖像まで、さまざまな絵画が生まれました。
その背景には、宮廷や教会だけでなく、都市の工房と市場がありました。
そして北のオランダ共和国では、絵画を支える人々の幅がさらに広がっていきます。
次回は、レンブラント、フランス・ハルス、ヤン・ステーン、デ・ホーホ、フェルメールたちを通して、市民が自分たち自身を絵にした時代を見ていきます。
絵画は、いよいよ市民の家の壁へ入っていきます。
図版情報
ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻像》ナショナル・ギャラリー蔵、ロンドン/Public domain
ピーテル・ブリューゲル(父)《農民の婚宴》美術史美術館蔵、ウィーン/Public domain
ピーテル・パウル・ルーベンス《キリスト昇架》アントウェルペン聖母大聖堂、アントウェルペン/Public domain
ヤーコプ・ヨルダーンス《豆の王様》美術史美術館蔵、ウィーン/Public domain
アンソニー・ヴァン・ダイク《ルーカス・ファン・ウッフェルの肖像》メトロポリタン美術館蔵、ニューヨーク/Public domain


