北方都市と宗教改革がひらいた「見る目」
ルネサンスは、王侯や教皇の宮廷だけで花開いたわけではありません。
フィレンツェには、メディチ家の邸宅と礼拝堂がありました。ローマには、教皇庁の権威と巨大な聖堂がありました。そこでは、美術は権力や信仰を大きな空間に刻みつけていきました。
けれど、アルプス山脈の北では、もうひとつのルネサンスが育っていました。
その舞台となったのは、商業都市の工房や印刷所、書斎や町の教会です。木版や銅版に刻まれたイメージは紙に刷られ、売られ、町から町へと運ばれました。
王や教皇のために描かれた大きな美術があった一方で、北方の都市では、美術が少しずつ人々の手元へ近づいていきます。
肖像は、思想家や宗教改革者の顔を人々に伝え、書物のページや一枚の版画が、信仰や知識、そして不安まで運ぶようになったのです。
そして、この変化の中にいた画家たち自身も、宮廷のためだけに働く存在ではありませんでした。
都市の職人の家から出発し、自分の名前をヨーロッパへ広げたアルブレヒト・デューラー。
宮廷に仕えながら、大きな工房を経営し、宗教改革者の顔を広めたルーカス・クラーナハ。
人文主義と出版の都市から、国境を越えてイングランド宮廷へ渡ったハンス・ホルバイン。
第1回では、この三人が生きた場所と仕事をたどりながら、都市と版画、宗教改革、そして新しい「見る目」がどのように生まれたのかを見ていきます。
都市から自分の名前を広げた画家
アルブレヒト・デューラーは、1471年、ドイツのニュルンベルクに生まれました。
ニュルンベルクは王の都ではありませんでした。けれど、神聖ローマ帝国の帝国自由都市として自治を認められ、交易と手工業が栄え、書物や版画が行き交うヨーロッパ有数の商業都市でした。
デューラーの父は金細工師でした。
つまり彼の出発点にあったのは、宮廷の華やかな画室ではなく、ものを作る職人の世界です。
幼いデューラーも父のもとで金細工の技術を学び、その後、画家の工房で修業しました。細い線を正確に刻み、形を組み立てる感覚は、のちの版画にもつながっていきます。(画像:アルブレヒト・デューラー《自画像》)
けれどデューラーは、工房の職人として生涯を終えませんでした。
各地を旅し、イタリアにも赴き、遠近法や人体比例、古代美術について学びます。自然を観察し、身体を測り、理論を書き、自分自身の姿も繰り返し描きました。
そして何より、自分の作品に「AD」のモノグラムを記しました。
それは単なる署名ではありません。紙に刷られ、町から町へ運ばれていく作品に、「これはデューラーの作品である」と示す印でもありました。
それは、宮廷に抱えられなくても、自分の技術と名前によって作品を広められる時代が始まっていたことを示しています。
デューラーは、職人の工房から出発しながら、画家自身の名前が価値を持つ時代を先取りした人物でもありました。
後にデューラーの版画は、その名声とともに国外でも模倣されるようになります。ヴェネツィアでは、作品だけでなく「AD」のモノグラムまで複製される問題が起きました。
それほどまでに、デューラーの名前そのものが作品の価値と結びつきはじめていたのです。
世界を観察し、測り、理解しようとしたデューラー。
その知性の奥にある不安を、もっとも強く感じさせる作品のひとつが《メランコリア I》です。
アルブレヒト・デューラー《メランコリア I》

画面には、翼を持つ人物が座り込んでいます。
周囲には、コンパス、球体、多面体、はかり、砂時計、工具が置かれています。
何かを作るための道具がそろっているのに、人物は動き出せず、深く沈み込むように考えています。
ここにあるのは、ただの悲しみではありません。知性の不安です。
世界を測りたい。形を理解したい。自然を観察したい。
けれど、どれほど道具を持っていても、世界のすべてをつかみきることはできない。
人間は知ることができます。しかし、知れば知るほど、自分には理解できないものがあることにも気づいてしまいます。
《メランコリア I》には、そんな人間の知の限界が漂っています。
そして、この作品を作ったデューラー自身もまた、世界を観察し、測り、理解しようとした人物でした。
ここで、作品そのものの技法にも目を向けてみましょう。
《メランコリア I》は、銅板にビュランと呼ばれる鋭い道具で線を直接刻み、その溝にインクを詰めて紙へ刷るエングレービングという技法で作られています。
いったん刻んだ線は簡単には消せません。どこに、どの方向へ、どれほど深く線を入れるか。その積み重ねによって、光と影、金属の冷たさ、布の柔らかさ、空間の奥行きまで表現していきます。
デューラーは、このエングレービングをヨーロッパ版画の最高峰のひとつにまで高めました。
《メランコリア I》を細かく見ると、人物の衣服や髪、道具、石、空、遠くの光まで、無数の線によって作られていることがわかります。
けれど、その線は単なる技巧の見せ場ではありません。
――世界を細かく観察し、線によって分解し、もう一度紙の上に組み立て直す。
その行為そのものが、人体の比例を研究し、遠近法を学び、数学や幾何学を美術へ取り込んだデューラーの姿勢と重なっています。
画面の中の人物が抱える「知りたい」という欲望は、デューラー自身の姿ともどこか重なって見えるのです。
そして、この作品が版画であることには、もうひとつ大きな意味がありました。
宮殿の広間に掛けられる一点の絵とは違い、版画は同じイメージを複数刷ることができます。紙に刷られた作品は、売られ、手に取られ、書斎や町の家に置かれ、さらに別の都市へ運ばれていきました。
この作品は、王の権威を飾るための華やかな絵ではありません。
むしろ、手元で眺め、考え、何度も読み解くように見る作品です。
ここで美術は、仰ぎ見るものから、読み解くものへ近づいています。
同時に、版画は美術を市場に乗せました。王や教皇のそばにいなくても、作品は遠くへ届く。画家本人がその町にいなくても、その名前は知られていく。
デューラーの作品と名前は、紙とともにヨーロッパを移動していきました。
紙に刷られた一枚のイメージは小さなものでした。
けれどそれは、美術を宮廷の壁から外へ押し出す大きな力を持っていたのです。
宮廷画家が宗教改革に「顔」を与える
ルーカス・クラーナハ(父)は、デューラーとは少し違う場所にいた画家です。
彼はザクセン選帝侯の宮廷画家でした。その意味では、決して「宮廷とは無縁の画家」ではありません。
けれど、だからこそクラーナハは面白い存在です。
クラーナハが活動したヴィッテンベルクは、やがて宗教改革の中心地となる町でした。
そこで彼は、ザクセン選帝侯の宮廷画家として働く一方、大きな工房を経営し、印刷事業や薬局にも関わりました。さらに市政にも参加し、市長まで務めています。
つまり彼は、宮廷から注文を受ける画家であると同時に、ヴィッテンベルクという町の経済と政治の中に深く入り込んだ市民でもありました。
――宮廷、都市、工房、印刷文化、宗教改革。
クラーナハは、そのすべてが交差する場所にいた画家です。
そして彼のすぐ近くにいたのが、マルティン・ルターでした。
クラーナハとルターは、単なる「画家とモデル」ではありません。長く親しい関係にあり、クラーナハはルターやその周辺の宗教改革者たちを繰り返し描いています。
ここで重要なのは、宗教改革が文章だけで広がったのではないということです。
ルターの文章を印刷する人がいて、それを読む人がいる。そして「ルターとはどんな人物なのか」を見せる肖像を作る人がいる。
思想を社会へ広げるためには、言葉だけでなく、顔も必要でした。その「顔」を広く定着させるうえで、大きな役割を果たしたのがクラーナハだったのです。
ルーカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルターの肖像》
16世紀の北方ヨーロッパでは、信仰そのものが大きく揺れ動いていました。
――宗教改革です。
ルターは、教会の権威や贖宥状の問題を批判し、信仰のあり方を根本から問い直しました。その思想は、書物や印刷物を通して急速に広がっていきます。
けれど、思想そのものは目に見えません。肖像は、そこに顔を与えます。
――この顔をした人が教会に問いを投げかけた。
その思想をひとりの人間の身体へ結びつけました。王の肖像が王権を可視化したように、クラーナハのルター像は宗教改革を可視化したのです。
しかし、ここに描かれているのは王でも皇帝でも教皇でもありません。ひとりの神学者です。
この違いは大きなものです。
王侯の顔だけが歴史を動かすイメージになるのではない。思想家や宗教改革者の顔もまた、社会を動かす力を持ちはじめる。
美術はここで、血脈の記録だけではなく、信念の記録にもなっていきます。
しかも、そのイメージを作ったクラーナハ自身が、宮廷と都市の両方に足を置いていました。
宗教改革は、単純に「宮廷の外から権力へ挑んだ運動」ではありません。
ルターを保護したザクセン選帝侯がいて、印刷業者がいて、都市があり、工房がある。その中にクラーナハもいました。
宗教改革の「顔」は、そうした複雑な社会のネットワークの中から生まれたのです。
そして宗教改革は、美術そのものにも難しい問いを投げかけました。
信仰にとってイメージは必要なのか。聖人像や祭壇画は人々を祈りへ導くのか。それとも、偶像崇拝として信仰を歪めてしまうのか。
地域によっては、聖像や祭壇画が批判され、破壊されることもありました。
だからといって、美術そのものが消えたわけではありません。
肖像や版画、書物の挿絵、さらにルター派の信仰を新しいかたちで伝える宗教画へと、美術は新たな役割を探していきます。
何を描くのか。何のために描くのか。誰に向けて描くのか。
宗教改革によって、その役割そのものが改めて問い直されることになったのです。
見る者を祈りへ導くためのイメージだけでなく、読むこと、考えること、信仰を確かめることを支えるイメージへ。
クラーナハは、その変化のただ中にいた画家でした。
国境を越えた画家が見た知と不安
ハンス・ホルバイン(子)もまた、ひとつの場所だけでは説明できない画家です。
彼はドイツのアウクスブルクに生まれ、若くしてスイスのバーゼルへ移りました。
当時のバーゼルは、印刷と出版、人文主義が栄えた都市でした。書物が作られ、古代の文献が読まれ、宗教について議論され、学者や出版人が行き交っていました。
ホルバインは、そうした知的な世界の中で仕事をしました。
彼が肖像を描いた人物のひとりに、人文主義者エラスムスがいます。
つまり彼もまた、最初から王の宮廷だけを仕事場としていた画家ではありません。出版と学問の都市にいて、知識人たちの顔を描いていたのです。(画像:ハンス・ホルバイン(子)《エラスムスの肖像》)
しかし宗教改革が進むと、美術を取り巻く環境も変化していきます。宗教画に対する需要や考え方が揺れ、画家たちも新しい仕事の場を探さなければならなくなりました。
その後、ホルバインはイングランドへ渡ります。そこで彼は、トマス・モアをはじめとする人文主義者や有力者の世界に入り、やがてヘンリー8世の宮廷へと近づいていきます。
都市の出版文化から、ヨーロッパを横断する知識人のネットワークへ。そして、その先に宮廷がある。
ホルバインの人生そのものが、16世紀ヨーロッパの移動と分裂を映しているようにも見えます。
その彼が1533年に描いたのが、《大使たち》です。
ハンス・ホルバイン(子)《大使たち》
画面には、ふたりの男性が堂々と立っています。
彼らのあいだには、地球儀、天球儀、日時計、楽器、書物などが置かれています。
世界や時間を測る道具、音楽や学問を示す品々。そこには、外交、知識、教養への自信が並んでいます。
一見すると、この作品は、人間が世界を理解できるという自信に満ちているように見えます。
けれど、画面には小さな亀裂があります。弦の切れたリュートや、宗教世界の分裂を思わせる品々。そして画面の下を横切る、不思議に歪んだ形。
正面から見ると、何なのかわかりません。しかし斜めから見ると、それは髑髏です。
――世界を測る道具を集めても、人間は死から逃れられない。
――知識を集めても、ヨーロッパはひとつにはまとまらない。
世界が広がれば広がるほど、人間は自分たちが生きる世界の複雑さにも気づいてしまいます。
《大使たち》には、知識への誇りと、その知識だけでは世界を統合できないという不安が同時にあります。
そして、それを描いたホルバイン自身もまた、宗教改革によって揺れるヨーロッパを移動してきた人物でした。
バーゼルの人文主義と出版文化から、宗教改革によって揺れる大陸を離れ、イングランドへ。そして宮廷へ。
彼自身が、分裂するヨーロッパの境界を越えて仕事をしていました。
だから《大使たち》に並べられた地球儀や書物、測定器具は、単なる知識の象徴だけには見えません。
そこには、国境を越えて人や思想や情報が移動しはじめた時代の空気があります。
さらに、この作品は「見ること」そのものも問いかけているように思います。
正面から見てもわからないものが、見る位置を変えると現れる。
つまり、どこから見るかによって、世界の姿は変わるのです。
これは、このシリーズ全体にもつながる重要な問題です。
人はどこから世界を見るのか。
画家は誰の視線を意識して描いたのか。
そして、私たちは何を見て、何を見落としているのか。
《大使たち》は、知識についての絵であると同時に、見る者自身の位置を問い返してくる作品でもあります。
宮廷の外に生まれた「見る人」
第1回で見てきた三人は、それぞれ違う場所にいました。
デューラーは、ニュルンベルクの職人の世界から出発し、版画によって自分の名前をヨーロッパへ広げました。
クラーナハは、ザクセン選帝侯の宮廷に仕えながら、ヴィッテンベルクで工房を動かし、ルターと宗教改革に視覚的な「顔」を与えました。
ホルバインは、バーゼルの出版と人文主義の世界からイングランドへ渡り、やがて宮廷へと入っていきました。
三人とも、単純に「宮廷の外にいた画家」ではありません。
むしろ重要なのは、宮廷と都市、工房と市場、信仰と知識のあいだを行き来していたことです。
近世ヨーロッパの美術は、ある日突然、王の宮殿から市民の家へ移ったわけではありません。
その途中には、こうした境界に立つ画家たちがいました。
美術を見る場所も変わっていきます。
宮殿や祭壇だけでなく、書斎や町の家へ。一点ものの絵画だけでなく、紙に刷られた版画へ。王侯の肖像だけでなく、宗教改革者や知識人の顔へ。
そして、美術を作る画家自身もまた変わっていきました。
職人として工房で働きながら、自分の名前を作品に刻む。大きな工房を経営し、印刷文化と結びつく。国境を越えて仕事を探し、都市と宮廷の両方を行き来する。
画家もまた、変化する社会の中を生きていました。
だから、作品だけを見ていても、この時代の美術の面白さはすべて見えてきません。
誰が描いたのか。どこで働いていたのか。誰から仕事を受けたのか。作品はどのように広がり、誰がそれを見たのか。
そこまで見てはじめて、「市民でたどるヨーロッパ近世美術史」の輪郭が見えてきます。
デューラーが残した、考える人間の不安。
クラーナハが広めた、宗教改革の顔。
ホルバインが描いた、世界を測る知と死。
そこに共通しているのは、「見ること」と「考えること」です。
人々はイメージを手に取るようになりました。遠くの人物の顔を見て、世界を測り、知ろうとし、自分が何を信じるのかまで問いはじめます。
市民の間に生まれた新しい美術史は、まず、この「見る目」から始まったのです。
次回は、宗教改革によって揺れた信仰が、さらに人間の身体と感情へ向かっていく時代を見ていきます。
――エル・グレコとカラヴァッジョ。
北方で「読む」「考える」方向へ動いた信仰とは別の場所で、美術は見る者の身体を直接揺さぶる力を強めていきます。
信仰は、読むものから、感じるものへ。
その激しい変化を見ていきます。
図版情報
アルブレヒト・デューラー《自画像》1500年、アルテ・ピナコテーク蔵、ミュンヘン/Public domain
アルブレヒト・デューラー《メランコリア I》1514年/Public domain
ルーカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルターの肖像》1528年、コーブルク城美術コレクション蔵、コーブルク/Public domain
ハンス・ホルバイン(子)《エラスムスの肖像》1523年、クンストムゼウム・バーゼル蔵、バーゼル/Public domain
ハンス・ホルバイン(子)《大使たち》1533年、ナショナル・ギャラリー蔵、ロンドン/Public domain


