浮世絵師入門⑥|芳年・暁斎・清親 ―― 明治の浮世絵は終わったのか

血に染まった歴史画、笑いながら行進する妖怪、闇の中に浮かぶ花火。

幕末から明治にかけて、浮世絵の画面は大きく変わりました。江戸幕府が終わり、東京には鉄道、煉瓦街、ガス灯、洋装の人々が現れます。新聞や写真、石版印刷など、新しい視覚メディアも広がりました。それまで出版文化の中心にいた浮世絵は、次第に古いものとみなされていきます。

では、明治時代に浮世絵は終わったのでしょうか。
今回取り上げるのは、月岡芳年、河鍋暁斎、小林清親です。

――芳年は、歴史や怪談の中に人間の感情を描きました。
――暁斎は、画派やジャンルを横断しながら、妖怪や動物、社会の滑稽さを描きました。
――清親は、夜の東京に生まれた光と影を木版画へ移しました。

三人の作品を通して、江戸の浮世絵が明治の視覚文化へ変わっていく姿を見ていきます。

この記事で見る時代:幕末から明治(19世紀後半)
この記事で見る流れ:美人画の身体を広げる湖龍斎 → 版本と北尾派を支える重政 → 遠近法と歌川派の道を開く豊春

幕末から明治とは、どのような時代だったのか

浮世絵は、江戸という都市とともに発展しました。歌舞伎役者、美人、名所、旅、物語、流行。絵師たちは、江戸の人々が見たいものを、版元、彫師、摺師とともに商品へ変えてきました。

しかし、1868年に江戸は東京となります。

新しい政府は、西洋の制度や技術を急速に導入しました。服装や建築だけでなく、人々が世界を見る方法も変わっていきます。新聞は出来事を素早く伝え、写真は人物や風景を機械的に記録しました。石版印刷や銅版画も広まり、木版画だけが大量複製の方法ではなくなります。

浮世絵は、新しい時代を描かなければならない一方で、新しいメディアとも競わなければなりませんでした。

芳年、暁斎、清親は、その変化に同じ方法で向き合ったわけではありません。芳年は物語をさらに劇的にし、暁斎はあらゆる絵画技法を横断し、清親は近代の光そのものを主題にしました。

月岡 芳年|人間の感情を極限まで劇化した絵師

月岡芳年は、歌川国芳の門人です。
国芳が武者絵、怪異、戯画を通して物語の世界を広げたのに対し、芳年は、その物語を人間の心理へ近づけていきました。

芳年の作品では、刀が振り下ろされる瞬間や、幽霊が現れる瞬間だけが重要なのではありません。恐怖に耐える顔、何かを決意した身体、静かな画面に張りつめる気配。芳年は、事件が起きる前後の人間を描きました。

月岡芳年を見るポイント

  • 事件そのものより、恐怖や緊張を抱えた人物の表情と身体を見る
  • 激しい動きと静かな余白を同じ画面に置く、劇的な構図を見る
  • 怪談・歴史画から明治の女性像まで、時代に応じて変化する主題を見る

《奥州安達がはらひとつ家の図》|血を描かずに恐怖を描く

月岡芳年《奥州安達がはらひとつ家の図》《奥州安達がはらひとつ家の図》は、安達原の鬼婆伝説を題材とした作品です。

画面には、妊婦を殺そうとする老婆と、縄で吊られた犠牲者が描かれています。題材だけを見れば、非常に残酷です。しかし、芳年は血しぶきを画面いっぱいに描いてはいません。

暗い室内、細い縄、横たわる刃物、動きを止めた人物。何が起ころうとしているのかを理解した瞬間、見る側の想像によって恐怖が完成します。

芳年のグロテスクさは、血の量だけにあるのではありません。人間が、これから起こることを止められない。その時間の残酷さを、芳年は一枚の画面へ閉じ込めました。

画像:月岡芳年《奥州安達がはらひとつ家の図》1885年、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵(Public Domain)

《月百姿 烟中月》|炎と煙の中に残る月

晩年の代表作『月百姿』では、芳年の画面は大きく変わります。

月岡芳年《月百姿 烟中月》《烟中月》では、月が画面の主役として大きく描かれるのではありません。炎と煙の中で戦う人物の背後に、月が静かに浮かんでいます。

人物は激しく動き、炎は画面を揺らしています。それでも月だけは、その出来事から離れた場所にあります。

若い頃の芳年が事件の激しさを前面に出したとすれば、『月百姿』では、事件と静けさを同じ画面に置くようになりました。芳年の物語画は、単に過激になったのではありません。

何を大きく描き、何を見せず、どこに余白を残すのか。木版画の構図は、晩年にさらに研ぎ澄まされていきました。

画像:月岡芳年《月百姿 烟中月》1886年、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《風俗三十二相 遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗》|江戸の美人画と明治の新風俗

月岡芳年《風俗三十二相 遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗》『風俗三十二相』は、異なる時代や身分の女性を、「〜そう」という題で描いたシリーズです。

《遊歩がしたさう》には、洋風の装いを取り入れた明治の妻君が描かれています。花に囲まれ、日傘を手にした姿からは、明治という新しい時代の華やかさが伝わってきます。

一方で、衣服、髪形、花、日傘といった要素は、当時の近代的な生活や女性像を示す記号として、意識的に組み合わされています。

そのため、この作品は一人の女性の個性を描くというより、明治の新しい風俗そのものを示した肖像として見ることもできます。

江戸の美人画では、髪形、衣服、仕草を通して、女性の身分や年齢、流行、都市の空気が表現されてきました。《遊歩がしたさう》も、その伝統を受け継ぎながら、洋装や日傘といった新しい風俗を木版画の画面へ取り込んでいます。

そこには、江戸以来の美人画の形式と、明治の近代的な生活様式が同居しています。この少し異質な組み合わせこそ、浮世絵が新しい時代の人物像をどのように描くかを模索していたことを示しているのでしょう。

画像:月岡芳年《風俗三十二相 遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗》1888年、国立国会図書館蔵/Wikimedia Commons(Public Domain)

河鍋 暁斎|浮世絵という枠から飛び出した絵師

河鍋暁斎を、単純に浮世絵師と呼ぶことは難しいかもしれません。
暁斎は幼い頃に歌川国芳のもとで学び、その後、狩野派の本格的な絵画教育を受けました。

――浮世絵、狩野派、動物画、妖怪画、風刺画、版本、肉筆画。

暁斎は、それぞれの画派やジャンルを守るのではなく、必要に応じて混ぜ合わせました。どの作品にも、少しユーモラスな気配がありますが、そこには確かな技術があります。

河鍋暁斎を見るポイント

  • 浮世絵、狩野派、動物画、妖怪画を自在に横断する画力を見る
  • 人間や動物の動きを一瞬で捉えた、速く力強い線を見る
  • 高度な技術の中に入り込む、笑い、風刺、いたずら心を見る

《今昔未見 生物猛虎之真図》|本物らしく描いた、見たことのない虎

河鍋暁斎《今昔未見 生物猛虎之真図》《今昔未見 生物猛虎之真図》には、「これまで見たことのない、生きた猛虎の真の姿」という意味の題が付けられています。

ところが、幕末の日本で生きた虎を直接見る機会は限られていました。暁斎の虎は、写実を目指しているようで、どこか猫や見世物の動物にも見えます。

――筋肉、毛皮、鋭い爪。

細部は真剣に描かれています。それでも全体を見ると、現実の虎というより、「人々が恐ろしい虎に期待した姿」が画面に現れています。題名が大げさであることも含めて、写実と誇張、知識と想像の境目そのものが作品になっています。

画像:河鍋暁斎《今昔未見 生物猛虎之真図》1860年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

『暁斎百鬼画談』|妖怪たちの最後の大行進

河鍋暁斎『暁斎百鬼画談』『暁斎百鬼画談』では、無数の妖怪が夜の中を行進します。

――器物、動物、骸骨、鬼。

異なる姿をした妖怪たちが、折本の画面を次々と横切っていきます。ここに、芳年の怪談画のような張りつめた恐怖はありません。暁斎の妖怪は、怖がらせるために現れるというより、騒ぎ、転び、ふざけながら行列を作ります。

江戸時代から描き継がれてきた百鬼夜行は、明治になると古い迷信として退けられるものでもありました。暁斎は、その古い妖怪たちを、近代社会から追い出すのではなく、最後に盛大なパレードへ送り出したようにも見えます。

画像:河鍋暁斎『暁斎百鬼画談』1890年刊、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《猿を襲う鷲図》|木版画を越えて暴れる筆

河鍋暁斎《猿を襲う鷲図》《猿を襲う鷲図》は木版画ではなく、大きな掛幅です。
鷲は翼を広げ、猿へ襲いかかります。羽根や岩は、細部を均一に整えるのではなく、速く荒々しい筆で描かれています。

ここでは、版木に彫ることを前提とした明確な輪郭線より、筆の速度と強さが画面を支配しています。暁斎は浮世絵の世界から出発しましたが、浮世絵の中だけに留まりませんでした。

明治の絵師は、版画家、画家、挿絵師といった役割に分かれていきます。

暁斎は、近代的な分業が固まっていく時代に、版本、風刺画、肉筆画を横断して活動した、きわめて稀有な絵師だったといえます。

画像:河鍋暁斎《猿を襲う鷲図》1885年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

小林 清親|近代都市の光と闇を描いた絵師

小林清親の作品を見ると、浮世絵の空気が一変します。歌舞伎役者も、遊女も、武者も、妖怪も、画面の中心にはいません。

清親が見つめたのは、東京の夜、雪、雨、火、電灯、鉄道です。西洋画や写真の影響を受けながら、清親は光と影を木版画で表現しました。

その作品は「光線画」と呼ばれます。

しかし、清親が描いたのは明るい近代だけではありません。新しい光が生まれるほど、その周囲には深い闇が現れました。

小林清親を見るポイント

  • 夜、雪、雨、火などによって変化する光と影を見る
  • 名所ではなく、都市の周縁や何気ない場所を描く視線を見る
  • 花火や街灯から戦場の電気照明まで、近代の光が持つ二つの顔を見る

《池之端花火》|光が闇を照らすのではなく、闇を深くする

小林清親《池之端花火》《池之端花火》では、夜空から花火の光が落ちています。岸には提灯が並び、対岸の灯が水面に反射しています。

しかし、見物人の顔はほとんど見えません。

人々は黒い影となり、花火を見上げています。広重も雨、雪、夜を描きましたが、その風景には、旅人がその場所を通過する時間がありました。

清親の夜景では、人間は都市の闇へ吸収されます。光は世界を明るく見せるのではなく、見える場所と見えない場所を分断します。

これが、江戸の名所絵とは異なる、近代都市の夜でした。

画像:小林清親《池之端花火》1881年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《江戸郊外の冬の夕景》|名所ではない場所を描く

小林清親《江戸郊外の冬の夕景》《江戸郊外の冬の夕景》では雪の積もった道を、人が歩いています。名高い寺社も、橋も、富士山もありません。画面にあるのは、都市の外れにある暗い道と、遠くに見えるわずかな光です。

江戸時代の名所絵は、人々が知っている場所や、訪れてみたい場所を商品にしました。

清親が描いたのは、観光名所ではない東京です。近代都市が広がる途中に生まれた、空白のような場所です。

何も起きていない夕景に目を向けたところに、清親の新しさがあります。

画像:小林清親《江戸郊外の冬の夕景》1878年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《平壌攻撃電気使用之図》|都市を照らした光が、敵を探す光になる

小林清親《平壌攻撃電気使用之図》《平壌攻撃電気使用之図》は、日清戦争の平壌攻撃を描いた三枚続の版画です。

画面では、強い電気の光が夜の戦場を横切っています。《池之端花火》で都市の夜を彩っていた光は、ここでは敵の位置を探し出す軍事技術になっています。

清親は、近代の光を無条件に美しいものとして描いたわけではありません。

光は祭りを照らし、街を照らし、やがて戦場を照らします。

浮世絵は昔から、火事、災害、戦争、事件を素早く商品へ変えてきました。その意味では、この戦争画も江戸の出版文化の延長にあります。

しかし、描かれているのは武者同士の物語ではありません。電気、銃、大砲、組織化された軍隊。個人の英雄より、近代国家の技術が画面を支配しています。

画像:小林清親《平壌攻撃電気使用之図》1894年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

芳年・暁斎・清親を並べると見えてくること

三人は、明治という同じ時代を生きました。しかし、その作品は大きく異なります。

絵師 受け継いだもの 明治に描いたもの
月岡 芳年 国芳の武者絵・怪異・物語 歴史、恐怖、人間の心理、近代女性
河鍋 暁斎 浮世絵と狩野派の技術 妖怪、動物、風刺、自在な筆
小林 清親 名所絵と木版出版 光、影、東京、戦争、近代技術

芳年は、浮世絵の物語を人間の内側へ向けました。
暁斎は、浮世絵を他の画派や絵画技法と混ぜ合わせました。
清親は、浮世絵の画面を近代都市へ向けました。

三人の後、これらの役割は別々のメディアへ分かれていきます。物語や風刺は新聞・雑誌の挿絵や漫画へ、都市の記録は写真へ、美術としての絵画は展覧会制度の中へ移っていきました。

江戸時代の浮世絵が一つの画面で担っていた役割が、近代には複数の分野へ分解されたのです。

まとめ|明治の浮世絵は終わったのか

明治時代に、江戸の浮世絵を支えていた社会は失われました。
歌舞伎、美人、名所、出版市場が消えたわけではありません。しかし、それらを取り巻くメディアと制度は大きく変わりました。

――写真、新聞、洋画、石版印刷、新しい美術教育。

浮世絵は、都市の視覚文化の中心ではなくなっていきます。その意味では、浮世絵は明治に終わったといえるでしょう。

しかし、そこで育てられた線、色面、構図、物語、風刺、複製の思想まで消えたわけではありません。芳年の劇的な物語、暁斎の風刺と自在な筆、清親の光と都市は、のちの挿絵、漫画、近代絵画、新版画とも響き合っていきます。

浮世絵は、江戸以来の都市出版メディアとしての中心的な役割を終えながら、その線、色彩、構図、物語、風刺を日本の近代的な視覚文化へ受け渡していきました。

浮世絵師入門第1回では、師宣、清信、春信を通して、浮世絵の誕生を見ました。そこから画面は広がり、人の顔へ近づき、歌舞伎スターを生み、旅や怪異を描き、最後には明治の都市の光へたどり着きました。

浮世絵は、北斎の波や広重の東海道だけでできているわけではありません。

それは、江戸から明治にかけて、人々が何を見て、何を恐れ、何を笑い、何を新しいと感じたのかを記録した、巨大な視覚メディアだったのです。