浮世絵と歌舞伎は、切り離して考えることができません。
江戸の芝居町には、朝から多くの人が集まりました。芝居小屋の前には、その日に上演される演目や出演役者を知らせる看板が並び、芝居茶屋の者が客を迎えます。
贔屓の役者を目当てに訪れる人もいれば、町で聞いた評判につられて足を運ぶ人もいました。客は弁当を食べ、知人と言葉を交わしながら、役者の登場を待ちます。芝居が終われば、演技や衣装が町の噂となり、舞台で見た役者の姿は浮世絵となって売り出されました。
江戸の人々にとって、歌舞伎役者は舞台の上だけにいる存在ではありません。
役者絵を買えば、お気に入りの役者の顔や衣装、得意な役柄を、自分の手元に置くことができました。
――顔や身体に刻まれた癖を、容赦なく拡大する。
――舞台上の姿を、観客が憧れるスター像へ整える。
――演目、配役、衣装、物語を、膨大な版画として町へ届ける。
江戸後期の役者絵は、歌舞伎の人気を写すだけでなく、役者のイメージそのものを作り出すメディアになっていきました。
第4回で取り上げるのは、東洲斎写楽、初代歌川豊国、歌川国貞(三代豊国)の三人です。
写楽は、役者の顔や身体に刻まれた個性を、見る者の前へ突きつけました。豊国は、役者の特徴を残しながら、観客が手元に置きたくなる魅力的な姿へ整えました。そして国貞は、半世紀以上にわたり役者絵を描き続け、幕末の歌舞伎文化を巨大な出版物の世界へ変えていきました。
三人の作品を並べると、役者絵が「舞台を記録する絵」から、スターを発見し、演出し、流通させるメディアへ発展していく様子が見えてきます。
この記事で見る時代:江戸後期(18世紀末〜19世紀中頃)
この記事で見る流れ:役者の個性を突きつける写楽 → スター像を整える豊国 → 歌舞伎文化を大量に流通させる国貞
江戸後期、役者絵はスターを作るメディアになる
江戸時代の歌舞伎役者は、現代の俳優や芸能人に近い人気を持つ存在でした。
寛政期には、五代目市川團十郎、四代目松本幸四郎、三代目瀬川菊之丞など、顔、声、身体の使い方、得意とする役柄が異なる役者たちが人気を競いました。
荒事を得意とする役者、悪役に迫力を与える役者、女性以上に女性らしい姿を見せる女方。観客は、それぞれの役者の顔や芸風を見分け、自分の贔屓を持っていました。
役者絵は、公演の記憶を残す土産であり、お気に入りの役者を身近に置くための商品でもあります。
ただし、そこに描かれた姿は、舞台をそのまま写した記録ではありません。
どの役柄を選び、どの瞬間を切り取り、顔や衣装をどのように見せるのか。版元と絵師は、観客が役者に何を求めているのかを考えながら作品を作りました。
役者絵の中の人物は、実在する役者であると同時に、出版市場によって作り出されたスターでもあったのです。
東洲斎 写楽|わずか10か月で画面を変えた絵師
東洲斎写楽は、生没年も経歴も明らかではない、謎の多い浮世絵師です。
1794年5月、版元・蔦屋重三郎から、江戸三座の歌舞伎役者を描いた28図の大首絵を一度に発表しました。その後、翌1795年正月までのおよそ10か月間に、現在確認されているだけで142図ほどの作品を残し(作品数は資料によって143〜145図とも数えられます)、浮世絵界から姿を消します。
写楽の正体については、阿波徳島藩主・蜂須賀家に仕えた能役者、斎藤十郎兵衛とする説がよく知られています。江戸時代の考証家である斎藤月岑の記述などを根拠とする有力説ですが、写楽の経歴を完全に確定できる資料はなく、現在も正体をめぐる議論は残されています。
しかし写楽の面白さは、正体の謎だけにあるのではありません。わずか10か月ほどの活動中に、作品の判型、構図、題材、役者の見せ方が急速に変わっていくのが特徴です。
写楽の作品は、一般に4つの作画期へ分けられます。
第1期:1794年5月・28図|大判黒雲母摺の役者大首絵
第2期:1794年7月〜8月・38図|大判大首絵と細判の全身役者絵
第3期:1794年11月〜閏11月・64図|全身役者絵、大首絵、追善絵、相撲絵
第4期:1795年1月・12図|全身役者絵と相撲絵
つまり写楽は、北斎の《富嶽三十六景》のような一つの連作を長く描いたのではありません。
歌舞伎の興行時期に合わせて、役者絵をまとまった商品群として刊行しました。第1期の28図は豪華な大判大首絵として一挙に売り出され、その後は全身像や二人像、相撲絵へと商品形式を変えていきます。
わずか数か月の間に、写楽の画面は、
顔と手を突きつける大首絵 → 全身の姿勢で役を見せる役者絵 → 複数人物と舞台上の関係を描く画面
へ変化していったのです。各期ごとに作品を見ていきましょう。
東洲斎 写楽を見るポイント
- 左右非対称の目、鼻、口、輪郭の癖を見る
- 顔だけでなく、指や肩、首の動きを見る
- 役者本人の特徴と、劇中人物の性格がどこで重なるかを見る
《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》|第1期 28図の大首絵で突然登場する
1794年5月、写楽は28図の役者大首絵によって、突然、浮世絵界へ登場しました。
描かれたのは、江戸の都座、桐座、河原崎座で上演された芝居に出演する役者たちです。
すべて大判の紙を使い、背景には黒雲母が施されました。人物の胸から上を画面いっぱいに描く、豪華で統一感のある作品群で、一枚ずつ異なる役者と役柄を描きながらも、28図全体がひとつの大規模な出版企画として設計されていました。
代表作の《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》では、役者の顔と両手が画面の前へ迫ります。
細い目は横へ向き、口元には不敵な表情が浮かんでいます。胸元から伸びた両手は、相手へにじり寄り、何かを奪おうとしているようです。また指は細く、不自然なほど大きく開かれています。
写楽は顔だけでなく、指、肩、首の動きまで使い、奴江戸兵衛という悪役の卑しさや執念深さを表しました。
背景や舞台装置は、ほとんどありません。見る者は、役者の顔と手から逃れることができません。役者本人の骨格と、劇中人物の性格が、一つの身体の中でぶつかっています。
従来の役者絵が役者を魅力的に整えて見せたのに対し、写楽は顔や身体に刻まれた癖を誇張し、演技の緊張を観客の前へ突きつけました。
画像:東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》1794年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
《三代目坂田半五郎の子育観音坊》|第2期 大首絵から全身像へ
1794年7月から8月の第2期には、計38図が刊行されました。
大判の大首絵も一部残りますが、中心となったのは細判の全身役者絵です。第1期では顔と手が画面を支配していましたが、第2期では衣装、姿勢、足の開き、身体の重心が重要になります。
《三代目坂田半五郎の子育観音坊》では、大きな身体を持つ役者が、細長い画面の中に立っています。
注目したいのは、顔だけではありません。衣装に包まれた身体の大きさ、足の開き、腰の位置、腕の構えによって、役柄の力強さと重さが表されています。
人物の周囲には余白があり、観客は役者の全身と姿勢を眺めることができます。顔から身体へ、写楽の関心が広がったと見ることもできるでしょう。
その一方で、第1期の大首絵にあった、役者の顔から逃れられないような圧迫感は弱くなりました。伝えられる情報は増えましたが、最初期の作品が持っていた異様な集中力は、少し薄まったようにも見えます。
画像:東洲斎写楽《三代目坂田半五郎の子育観音坊》1794年、シカゴ美術館蔵(CC0)
《三代目市川八百蔵と初代中山富三郎の切禿》|第3期 複数の役者と舞台上の関係へ
1794年11月から閏11月の第3期には、64図が刊行されました。
細判の全身役者絵に加え、間判の大首絵、追善絵、相撲絵など、判型も題材も大きく広がります。写楽の全活動の中でも、最も多くの作品が作られた時期です。
《三代目市川八百蔵と初代中山富三郎の切禿》では、二人の役者が獅子舞を演じる姿が、二枚続で描かれています。
二人は似た衣装と獅子頭を身につけていますが、身体の向きや手足の動きは異なります。
観客は一人の顔だけでなく、二人の距離、姿勢、演技の違いを見比べることができます。
第1期では一人の顔と手へ集中していた画面が、第2期には全身へ、第3期には複数の役者と舞台上の関係へ広がりました。役者絵として伝えられる情報は、確実に増えています。
しかし、作品が持つ緊張感はさらに後退し、同時代の一般的な役者絵へ近づいているようにも感じられます。
画像:東洲斎写楽《三代目市川八百蔵と初代中山富三郎の切禿》1794年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
第4期|12図を残して活動を終える
1795年正月の第4期に確認されているのは、細判の全身役者絵10図と、間判の相撲絵2図です。
写楽の名は落款に残りますが、最初期の作品にあった、顔を画面いっぱいに突きつける構図は、もはや中心ではありません。
そして、この12図を最後に、写楽の絵師としての活動は確認できなくなります。
――なぜ作品を作らなくなったのか。
――もともと短期間だけの出版企画だったのか。
――売れ行きや市場の反応が影響したのか。
――あるいは、本業とされる能役者へ戻ったのか。
彼に関しては現在も謎が多く、確かな答えはわかっていません。
初代 歌川 豊国|役者を魅力的なスターにした人
初代歌川豊国は、1769年に江戸で生まれ、歌川豊春の門人となりました。
美人画や版本の挿絵も手がけましたが、特に役者絵によって人気を集め、歌川派が大きな流派へ成長する基礎を築きました。
写楽と同じ1790年代に役者絵を手がけた豊国は、まったく異なる方向へ進みます。
写楽が、役者の顔や身体に刻まれた癖を強く押し出したのに対し、豊国は、役者の特徴を残しながら、顔、衣装、立ち姿を端正に整えました。
観客が舞台で見た役者の魅力を、もう一度手元で眺められる姿へ変えたのです。
写楽が役者を「暴く」絵師だとすれば、豊国は役者を「スターとして見せる」絵師でした。
初代歌川豊国を見るポイント
- 役者の顔や姿が、どのように端正に整えられているかを見る
- 衣装の模様と、全身の立ち姿を見る
- 写楽と比べ、どちらが観客の望むスター像に近いかを見る
《役者舞台之姿絵 三代目沢村宗十郎の島田重三郎》|観客が持ち帰りたいスターの姿
《役者舞台之姿絵 三代目沢村宗十郎の島田重三郎》では、役者が全身をすらりと伸ばして立っています。
写楽の大首絵のように、顔や両手を観客へ突きつけてはいません。
役者は視線を横へ向け、刀や籠を持ちながら、静かな姿勢を保っています。黒地の衣装には細かな植物文様が施され、淡い背景の中に人物の姿が端正に浮かび上がります。
顔の癖や演技の緊張を誇張するのではなく、役者の立ち姿、衣装、身のこなしを含めて、一人の魅力的なスターとして見せる。
豊国の役者絵は、舞台で見た役者の格好よさを、観客がそのまま持ち帰れる姿へ整えました。
作品名にある「役者舞台之姿絵」という言葉も、その性格をよく表しています。ここに描かれているのは、役者の素顔ではありません。観客の記憶に残る、舞台上の完成された姿なのです。
画像:初代歌川豊国《役者舞台之姿絵 三代目沢村宗十郎の島田重三郎》1795年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
《三代目坂東三津五郎と四代目岩井半四郎》|二人の役者と、芝居の情緒
《三代目坂東三津五郎と四代目岩井半四郎》では、二人の役者が一本の大きな傘の下に立っています。
画面には細い雨が斜めに降り、二人の衣装は異なる縞模様で覆われています。
一人は傘を持ち、もう一人はその下へ身を寄せています。二人の身体の向きや視線、傘の下に生まれた距離によって、舞台上の人間関係が伝わってきます。
ここでは、役者一人の顔や全身だけが商品になっているのではありません。
雨の降る場面、二人の役者の組み合わせ、衣装の華やかさ、芝居に流れる情緒までが、一枚の浮世絵として切り取られています。
観客はこの絵を眺めながら、舞台で見た二人の姿や物語の一場面を思い出したことでしょう。
豊国は、役者を魅力的に見せるだけでなく、役者同士の関係や芝居の雰囲気まで、手元で繰り返し味わえるものへ変えました。
画像:初代歌川豊国《三代目坂東三津五郎と四代目岩井半四郎》1800年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
『役者相貌鏡』|役者文化をまとめて流通させる
豊国の仕事は、一枚物の役者絵だけにとどまりません。
1804年に刊行された『役者相貌鏡』は、役者の顔や姿を収めた彩色版本です。
見開きには役者の肖像と文章が並び、読者はページをめくりながら、顔立ち、髪形、衣装、役柄の違いを見比べることができました。
これは単なる絵本や画集ではありません。
誰がどのような役者なのかを知り、自身のお気に入りを見つけ、複数の役者を比較するための俳優名鑑に近い出版物でもありました。
歌舞伎ファンは、舞台を見た一日の記憶だけでなく、役者の顔や芸風に関する情報を、版本として手元へ置くことができたのです。
豊国は、一人のスター像を作るだけではありません。役者たちをひとつの出版物へ集め、歌舞伎界全体を読者が眺め、比べ、記憶できる形へ整理しました。
一人の役者を描いた版画から、役者文化全体を流通させる出版物へ。
豊国の仕事は、役者絵を安定した人気商品へ育てると同時に、歌舞伎をめぐる情報を広く届ける仕組みも作ったのです。
画像:初代歌川豊国『役者相貌鏡』1804年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
歌川 国貞(三代 豊国)|歌舞伎の世界を描き尽くした人
歌川国貞は、1786年に江戸で生まれ、初代歌川豊国の門人となりました。
若くして役者絵や美人画で人気を得て、江戸後期から幕末にかけて歌川派の中心となります。後に豊国の名を継ぎ、現在では三代豊国とも呼ばれています。
国貞の活動は、半世紀以上に及びました。
その間に、人気役者、演目、配役だけでなく、芝居町そのものも変化します。
天保の改革期には、江戸市中にあった芝居小屋が浅草方面へ移され、猿若町に劇場、芝居茶屋、料理屋、土産物店が集まる新しい娯楽街が生まれました。
国貞の作品には、役者の顔だけでなく、衣装、髪形、小道具、配役、舞台装置、流行の演目までが詰め込まれています。
写楽が短い活動期間の中で役者の一瞬を捉えたのに対し、国貞は長い時間をかけて、移り変わる歌舞伎の世界を描き続けました。
歌川国貞(三代豊国)を見るポイント
- 役者本人の顔と、役柄を示す衣装や小道具を見る
- 役者の個性が、どのようにスター像へ組み込まれているかを見る
- 顔、文字、衣装から、配役に関する情報を読み取る
《七代目市川團十郎の荒獅子男之助》|幕末のスターを役柄とともに描く
《七代目市川團十郎の荒獅子男之助》では、当時を代表する人気役者、七代目市川團十郎が描かれています。
役者は鉄扇を大きく掲げ、鋭い視線を前へ向けています。大きな鼻や引き締まった口元には、七代目團十郎本人の顔立ちが残されています。
一方、その身体は華やかな衣装に包まれ、荒々しい役柄の力強さが強調されています。
写楽の役者絵にも、役者本人と役柄が重なる瞬間がありました。
しかし国貞は、顔の癖を不穏なほど誇張するのではなく、役者の特徴を、観客が期待する英雄的なスター像へ組み込んでいます。役者名、役柄、衣装、持ち物を見れば、歌舞伎に詳しい観客は誰が何を演じているのかを理解できました。
国貞の役者絵は、一人の人物を描く肖像であると同時に、配役と舞台を知らせる情報媒体でもあったのです。
画像:歌川国貞《七代目市川團十郎の荒獅子男之助》1829年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
《舞台上の三人の役者 ―― 熊谷直実》|三枚続で舞台全体を印刷物へ変える
国貞は、一人の人気役者だけでなく、複数の役者が演じる舞台全体も描きました。
《舞台上の三人の役者 ―― 熊谷直実》では、三枚続の画面に、三人の役者がそれぞれ大きく配置されています。中央の人物は身体を大きく沈め、左右の人物は異なる身振りや表情を見せており、一枚ずつ見れば、それぞれの役者の肖像として成立します。
しかし、三枚を横につなげると、人物同士の距離、舞台上の位置関係、物語の緊張が、大きなひとつの画面として立ち上がります。衣装の模様、持ち物、背景、役者の顔。それぞれが、誰がどの役を演じ、どのような場面なのかを伝えています。
国貞は、舞台を写実的にそのまま再現したわけではありません。観客が芝居を思い出すために必要な役者、配役、衣装、物語を選び、一枚の大きな印刷物へ再構成しました。
役者絵は、一人のスターを示す肖像から、舞台全体を伝える総合的な歌舞伎メディアへ広がったのです。
画像:歌川国貞《舞台上の三人の役者 ―― 熊谷直実》1858年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
《当世好男子伝》|情報を詰め込んだ役者絵
《当世好男子伝 九紋竜史進に比す野晒悟助 三代目市川市蔵》では、役者が画面いっぱいに描かれています。
鋭い顔立ちの周囲には、龍を表した衣装、刀、髑髏を思わせる意匠、シリーズ名や役名を示す文字が重なります。
ここでは、三代目市川市蔵という実在の役者、野晒悟助という歌舞伎の人物、さらに中国小説『水滸伝』の九紋竜史進という豪傑のイメージが、一人の人物へ重ねられています。
――顔を見れば役者がわかる。
――衣装と持ち物を見れば役柄がわかる。
――文字を読めばシリーズや人物の関係がわかる。
――国貞の画面には、複数の情報が密集しています。
それでも全体が破綻しないのは、顔、衣装、刀、文字を大きな斜めの流れの中へ組み込み、人物の強さを一瞬で伝えるように設計しているからです。
これは、単なる役者の肖像ではありません。スター写真であり、物語の挿絵であり、演目の広告であり、色彩豊かな商品でもあります。
国貞は、歌舞伎をめぐる情報を高密度に圧縮し、観客が一目で楽しめる役者絵へ変えました。
画像:歌川国貞《当世好男子伝 九紋竜史進に比す野晒悟助 三代目市川市蔵》1854年、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)
三代豊国と、今も市場に残る浮世絵
国貞、すなわち三代豊国の作品は、現在も古書店や浮世絵専門店で比較的よく見かけます。
北斎や写楽の有名作品のように、美術館や大コレクターの世界だけに隔てられているわけではありません。状態や図柄にもよりますが、一枚数万円ほどで購入できる作品もあり、神田の古書店などで江戸時代の現物に出会うことができます。
作品が多く残っているのは、単に価値が低いからではありません。それだけ多く作られ、売られ、多くの人の手元へ渡ったからです。江戸の人々は、贔屓の役者の姿を買い、話題の芝居を思い出し、役者の顔や衣装、配役を見比べました。
国貞の作品は、歌舞伎を楽しむ多くの人々の欲望に応え、絶えず更新されながら流通した、大衆向けの印刷物でした。
現在も三代豊国の一枚を実際に手に取れることは、浮世絵がもともと人々に買われ、眺められ、消費された商品だったことを直接感じさせてくれます。
写楽・豊国・国貞(三代豊国)を並べると見えてくること
| 絵師 | 役者絵に加えたもの | 見るポイント |
|---|---|---|
| 東洲斎 写楽 | 役者の癖と、演技の緊張 | 顔の非対称、手の形、身体のねじれ |
| 初代 歌川 豊国 | 観客が求める魅力的なスター像 | 整えられた顔、全身の姿、衣装と芝居の情緒 |
| 歌川 国貞(三代豊国) | 歌舞伎文化の大量流通 | 配役、小道具、文字、模様、画面の情報量 |
写楽、豊国、国貞は、同じ役者絵を描きながら、まったく異なる方法で歌舞伎役者を浮世絵にしました。
――写楽は、役者の顔と身体を拡大し、その癖や演技の緊張を突きつけました。
――豊国は、役者の特徴を残しながら、観客が憧れ、手元に置きたくなるスター像へ整えました。
――国貞は、役者、配役、衣装、小道具、物語、評判を、膨大な版画として町へ流通させました。
三人に共通しているのは、役者をそのまま写してはいないことです。
役者絵は、江戸の人々が歌舞伎をどのように見て、誰をスターとして記憶したのかを作り出すメディアだったのではないでしょうか。
まとめ|役者絵は、江戸のスター・メディアだった
江戸後期の役者絵は、舞台の記録にとどまりませんでした。
――誰をスターとして見せるのか。
――どの顔を記憶させ、どの役柄に憧れさせるのか。
絵師と版元は、観客の欲望を読み取りながら、役者のイメージを作り出しました。
その制作には、絵師だけでなく、版元、彫師、摺師、劇場、役者、芝居茶屋、そして版画を買う観客が関わっています。
浮世絵は、天才絵師が一人で生み出した作品ではありません。江戸の出版文化と芸能産業が、共同で作り上げたメディアでした。
後に、初代豊国の門下からは、国貞だけでなく歌川国芳も育ちます。
次回は、渓斎英泉、歌川広重、歌川国芳を通して、江戸後期から幕末へ向かう浮世絵が、美人画の退廃、名所絵の旅情、武者絵と怪異の奇想へ広がる様子を見ていきます。


