浮世絵師入門 2.5|湖龍斎・重政・豊春 ―― 歌麿と歌川派への道

鈴木春信によって錦絵が広く定着したあと、浮世絵では女性の身体、版本の世界、都市空間の描き方が大きく変化していきました。

その変化を担ったのが、磯田湖龍斎、北尾重政、歌川豊春です。

湖龍斎は、春信の可憐な女性像を受け継ぎながら、より大きく存在感のある美人を描きました。

重政は、一枚絵だけでなく版本にも取り組み、江戸の出版文化の中で北尾派の基礎を築きました。

豊春は、遠近法を用いた浮絵を得意とし、のちに豊国、豊広、広重、国貞、国芳へ広がる歌川派の出発点となります。

今回は、春信の時代から歌麿へ、そして江戸後期最大の絵師集団となる歌川派へ、浮世絵の表現がどのように受け渡されたのかを見ていきます。

この記事で見る時代:江戸中期(18世紀後半)
この記事で見る流れ:美人画の身体を広げる湖龍斎 → 版本と北尾派を支える重政 → 遠近法と歌川派の道を開く豊春

春信の後、浮世絵はどこへ向かったのか

1760年代に鈴木春信が活躍すると、墨一色や限られた色数で作られていた浮世絵は、繊細な多色摺の錦絵へ発展しました。

しかし、錦絵が成立したことで、浮世絵の形が完成したわけではありません。春信の女性は、小柄で可憐です。人物は室内や庭、古典文学をもとにした見立の世界に置かれ、男女の区別さえ曖昧に見えるほど繊細に描かれました。

その後の美人画では、女性の身体が次第に大きくなり、衣服や髪形、立ち姿そのものが画面の主役になっていきます。

また、浮世絵師の仕事は一枚絵だけではありませんでした。絵本、黄表紙、狂歌本などの版本にも多くの絵師が関わり、絵と文章を組み合わせた出版文化が発展します。

さらに浮絵では、西洋や中国を通して伝わった遠近法を利用し、芝居小屋、座敷、橋、町並みを、奥へ広がる空間として描く試みが行われました。

湖龍斎、重政、豊春は、それぞれ美人画、版本、遠近法という異なる場所から、江戸後期の浮世絵を準備したのです。

磯田 湖龍斎|春信の美人を、存在感のある身体へ

磯田湖龍斎の初期作品には、鈴木春信に近い雰囲気があります。

人物は小柄で、顔立ちも繊細です。男女が静かな室内で過ごす場面や、古典的な物語を当世風に置き換えた見立も描かれました。

しかし、湖龍斎の女性像は、しだいに春信の可憐な人物から離れていきます。身体は大きくなり、着物の模様や帯、立ち姿がはっきりとした存在感を持つようになりました。

春信の女性が物語の中に置かれた小さな人物だとすれば、湖龍斎の女性は、身体そのものによって画面を支えるようになります。

磯田 湖龍斎を見るポイント

  • 春信に近い可憐な人物が、しだいに大きく変化する過程を見る
  • 縦長の画面に沿って伸びる、女性の身体と衣服の流れを見る
  • 髪形、帯、着物の模様に表された、吉原の流行を見る

《新年の贈り物》|春信の世界を受け継ぐ

磯田湖龍斎《新年の贈り物》《新年の贈り物》では、女性たちが室内で過ごす穏やかな場面が描かれています。人物はまだ小柄で、丸みの少ない顔立ちや、静かに身を寄せ合う姿にも春信の影響が感じられます。

室内には調度品や掛物が置かれ、人物だけでなく、季節や生活の空気まで細かく描かれています。

一見すると何も起きていない場面ですが、人物の視線や手の動きから、絵の外まで続く小さな物語を想像できます。

湖龍斎は、春信が作り上げた繊細な人物と物語の世界から出発しました。ただし、人物の身体には春信よりもわずかに重さがあり、室内の空間も現実味を増しています。

可憐な見立絵から、具体的な風俗を描く美人画へ向かう変化が、すでに始まっているのです。

画像:磯田湖龍斎《新年の贈り物》1769年頃、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《二人の踊り子》|柱絵に沿って伸びる身体

磯田湖龍斎《二人の踊り子》《二人の踊り子》は、極端に細長い柱絵です。

柱絵は、室内の柱や細い壁面に掛けることを想定した縦長の版画でした。通常の画面と同じように人物を置くだけでは、左右に十分な空間を取ることができません。

湖龍斎は、その細さを制約ではなく、人物の身体を伸ばすために利用しました。二人の女性は縦に重なるように置かれ、着物の線や袖の動きが上下へ流れます。画面が細いからこそ、身体の傾き、首の向き、衣服の重なりが強調されます。

春信の人物は、庭や室内、物語の場面の中で小さく描かれることがありましたが、それに対して湖龍斎の柱絵では、女性の身体が画面そのものと一体になります。

画面の形が人物を変え、人物の身体が画面の形を生かしているのです。

画像:磯田湖龍斎《二人の踊り子》1772年頃、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《雪中、傘を持って歩く若い女性》|風景の中に立つ美人

磯田湖龍斎《雪中、傘を持って歩く若い女性》雪の中を、一人の女性が傘を持って歩いています。

《雪中、傘を持って歩く若い女性》では背景は大きく省略され、雪景色も細かな風景描写によって説明されているわけではありません。

傘に積もる雪、女性の衣服、足元のわずかな表現によって、冷たい空気と静かな時間が伝わってきます。

人物は細長い画面の大部分を占めています。女性は物語の登場人物というより、その姿そのものを鑑賞する対象になりました。

髪形、衣服、傘、歩く姿。湖龍斎は、女性の全身を一つの完成された形として見せています。こうした長身の女性像は、のちに鳥居清長の美人画で、江戸の町や川辺を歩く伸びやかな身体へ展開します。

歌麿が女性の顔や感情へ接近する前に、美人画はまず、身体を大きく見せる方法を身につけていったのです。

画像:磯田湖龍斎《雪中、傘を持って歩く若い女性》1777年頃、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

北尾 重政|美人画と版本文化をつないだ絵師

北尾重政は、湖龍斎や豊春に比べると、現在では名前を目にする機会が少ないかもしれません。しかし、江戸中期の出版文化を考えるうえで、重政は重要な位置にいます。

重政は美人画や役者絵を描くだけでなく、多くの版本にも関わりました。一枚の錦絵だけで完結するのではなく、本の中で複数の場面を描き、文章や物語と結びつける仕事を行ったのです。

また、重政を中心とする北尾派からは、北尾政演として絵を描き、山東京伝として戯作を書いた人物や、北尾政美、窪俊満らが現れました。

重政の重要性は、一枚の代表作だけでは測れません。絵師、戯作者、版元が行き交う出版文化の中で、次の世代が活動する場所を作ったことにあります。

北尾重政を見るポイント

  • 派手な誇張を抑えた、穏やかな人物の姿と表情を見る
  • 一枚絵だけでなく、版本の見開き全体を設計する力を見る
  • 人物、室内、都市風景を結びつける、出版絵師としての仕事を見る

《女形の名優》|型と個人の間にある役者像

北尾重政《女形の名優》《女形の名優》では、歌舞伎の女形が描かれています。

鳥居派の役者絵では、太い線や大きな動きによって、舞台上の役柄や演技の力が表されましたが、重政の人物は、それほど激しく動いてはいません。

衣服の線、扇や手の位置、顔の向きによって、役者の静かな姿を見せています。勝川春章が役者一人ひとりの顔を描き分け、写楽が役者の個性を強く押し出す前、役者絵は「役柄の型」と「演じる個人」の間を進んでいました。

重政の役者像は、鳥居派の様式化された身体から、個人としての役者へ近づいていく時代の空気を伝えています。

画像:北尾重政《女形の名優》1764年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

『青楼美人合姿鏡』|一枚絵ではなく、本の中に作られた吉原

北尾重政・勝川春章『青楼美人合姿鏡』より《大文字屋の遊女たち》『青楼美人合姿鏡』は、北尾重政と勝川春章が手がけた彩色版本です。そこに描かれているのは、一人の遊女を大きく見せる美人画だけではありません。遊女たちは、座敷でくつろぎ、身支度をし、ほかの女性たちと語り合っています。

人物の周囲には、屏風、調度品、衣服、道具が描かれ、吉原の室内が一つの生活空間として構成されています。一枚絵では、見る側の視線は一人の人物へ集まりやすくなります。

版本では、ページをめくることで時間が進み、異なる店や人物、場面を続けて見ることができます。

重政と春章は、吉原を一人の美人の肖像ではなく、複数の人物が暮らす世界として本の中へ作りました。ここには、絵師が単独で作品を作るのではなく、版元、彫師、摺師、共同制作者とともに出版物を作る、江戸のメディア文化が現れています。

画像:北尾重政・勝川春章『青楼美人合姿鏡』より《大文字屋の遊女たち》1776年、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《両国帰帆》|美人画の背景に現れた江戸

北尾重政《両国帰帆》「当世見立美人八景」より《両国帰帆》は、「当世見立美人八景」の一図です。中国以来の画題である瀟湘八景を、当世の美人と江戸の風景へ置き換えています。

画面では女性だけでなく、両国の川や舟、町の気配も重要な役割を持っています。美人は風景の前に置かれた飾りではありません。人物の姿と都市の風景を重ねることで、両国という場所の賑わいや季節感が表されています。

春信の見立絵では、古典文学や故事が、若い男女の繊細な場面へ置き換えられましたが、重政の見立では、美人画が江戸の具体的な場所と結びついていきます。

女性を見ることと、都市を見ることが、同じ一枚の中で重なり始めたのです。

画像:北尾重政《両国帰帆》「当世見立美人八景」より、18世紀後期、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

歌川 豊春|遠近法と歌川派の出発点

歌川豊春は、歌川派の祖とされる絵師です。

のちに歌川派からは、豊国、豊広、国貞、国芳、広重らが現れます。江戸後期の役者絵、名所絵、武者絵の多くを歌川派が担うことを考えれば、豊春は浮世絵史の大きな分岐点に立つ人物です。

豊春が得意としたのが、遠近法を使った浮絵でした。建物の床、天井、柱などの線を奥へ集めることで、平らな紙の上に深い空間を作ります。

ただし、豊春の仕事は西洋的な遠近法の模倣だけではありません。遠近法を、芝居小屋、座敷、名所といった江戸の娯楽空間へ取り込み、そこへ多数の人物を配置しました。

豊春は、都市を一つの舞台として見せる方法を作ったのです。

歌川豊春を見るポイント

  • 床、天井、柱を奥へ収束させる、遠近法の線を見る
  • 多数の人物を配置し、都市や娯楽空間全体を見せる構成を見る
  • 浮絵だけでなく、人物画や肉筆画にも広がる仕事を見る

《浮絵歌舞伎芝居之図》|芝居小屋全体を一枚の舞台にする

歌川豊春《浮絵歌舞伎芝居之図》《浮絵歌舞伎芝居之図》では、歌舞伎の舞台だけでなく、客席、花道、桟敷、天井までが描かれています。

床や梁の線は、画面奥の一点へ向かって収束します。そのため、見る側は客席の後方から、本当に芝居小屋の中を見渡しているように感じます。

鳥居派や勝川派の役者絵では、舞台上の役者が画面の主役でした。豊春の浮絵では、役者だけでなく、芝居小屋そのものが主役になります。

観客は舞台を見ていますが、作品を見る私たちは、観客を含めた劇場全体を見ています。

芝居は、役者だけによって作られるものではありません。観客、舞台、建物、照明、座席。豊春は、歌舞伎を成立させる空間全体を一枚の版画へ収めました。

画像:歌川豊春《浮絵歌舞伎芝居之図》1776年頃、シカゴ美術館蔵(CC0/Public Domain)

《中洲夕涼み・歌舞伎芝居》|江戸の娯楽を横長の画面へ

歌川豊春《中洲夕涼み・歌舞伎芝居》《中洲夕涼み・歌舞伎芝居》では、川辺の遊興と歌舞伎の場面が横長の画面に描かれています。

江戸の娯楽は、芝居小屋の中だけに存在したわけではありません。川辺へ出かけ、舟に乗り、涼を取り、食事をし、芝居を見る。複数の楽しみが都市の中でつながっていました。

豊春は、一人の役者や美人へ接近するのではなく、人々が集まる場所を引いた視点から眺めます。人物は小さくなりますが、そのことで都市の広がりと人の多さが見えてきます。

江戸の浮世絵は、人気者の肖像を売るメディアであると同時に、人々がどこへ行き、何を楽しんだのかを伝える都市案内でもありました。豊春の画面には、のちに広重が名所絵で描くことになる、都市を歩き、眺める視線の芽生えがあります。

画像:歌川豊春《中洲夕涼み・歌舞伎芝居》江戸時代、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

《桜下遊女と禿》|遠近法だけではない豊春

歌川豊春《桜下遊女と禿》《桜下遊女と禿》は、版画ではなく肉筆画です。

黒い打掛を着た遊女と禿が、桜の下を歩いています。浮絵のように強い遠近法を見せる作品ではありません。

しかし、人物は背景から切り離されず、花見の季節や吉原の空間と結びつけて描かれています。豊春は、遠近法によって奥行きを作るだけでなく、人物を風景の中に置き、ひとつの場面として構成することを得意としました。

この感覚は、歌川派の後継者たちにも受け継がれます。

豊国は人物と舞台を結びつけ、広重は旅人と風景を結びつけ、国芳は巨大な物語空間の中へ人物を配置しました。

歌川派の強さは、人物、物語、都市、風景を、題材に応じて組み替えられることにあります。その柔軟な画面作りの出発点に、豊春がいました。

画像:歌川豊春《桜下遊女と禿》19世紀初頭、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)

湖龍斎・重政・豊春を並べると見えてくること

三人は同じ時代に活動しましたが、浮世絵を広げた方向は異なります。

絵師 広げたもの 江戸後期へのつながり
磯田 湖龍斎 美人画の身体と衣服 清長・歌麿の時代へつながる女性表現
北尾 重政 版本と人物世界 北尾派と江戸後期の出版文化
歌川 豊春 遠近法と都市空間 豊国・豊広から歌川派へ

――湖龍斎は、春信の可憐な人物を、画面を支える大きな身体へ変えました。

――重政は、一枚絵の外へ仕事を広げ、本の中に人物と都市の世界を作りました。

――豊春は、遠近法によって、人物が活動する空間そのものを広げました。

この三つの変化が重なることで、江戸後期の浮世絵が準備されていったのです。

まとめ|歌麿も歌川派も突然現れたのではない

歌麿の美人画も、豊国の役者絵も、広重の名所絵も、国芳の武者絵も、何もないところから突然生まれたものではありません。

――人物の身体、版本の構成、遠近法による空間、師弟関係、版元との仕事。

浮世絵は、こうした技術と仕組みが少しずつ受け渡されることで変化しました。

三人は、浮世絵史の主役として語られる機会こそ多くありません。しかし、その活動によって、春信の後から歌麿や歌川派の時代へ続く道筋が整えられたのです