北斎の波でも、広重の東海道でもありません。
長野県小布施町の北斎館で開催される「ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン美術館所蔵 ロックフェラー・コレクション花鳥版画展 北斎、広重を中心に」で出会うのは、花、鳥、虫、月、雪、そして季節の気配を描いた浮世絵です。
浮世絵というと、葛飾北斎《神奈川沖浪裏》や歌川広重《東海道五十三次》、あるいは写楽の役者絵、歌麿の美人画を思い浮かべる人も多いでしょう。けれど江戸の浮世絵には、もうひとつ静かな世界がありました。
――それが、花や鳥、四季の自然を描いた「花鳥版画」です。
本展では、アメリカのロードアイランド・スクール・オブ・デザイン美術館が所蔵するロックフェラー・コレクション約700点の中から厳選された、花鳥版画163点が紹介されます。
アメリカの富豪ロックフェラー家の一員、アビー・オルドリッチ・ロックフェラーが、1916年から10年以上にわたって収集した花鳥版画のコレクションが、日本でまとまって公開されるのは35年ぶり。江戸の小さな花鳥風月が海を渡り、ふたたび日本へ帰ってくる展覧会です。
この展覧会の見どころ
- 北斎・広重の有名な風景画とは異なる、花鳥版画の静かな世界
- ロックフェラー・コレクション約700点から厳選された花鳥版画163点
- 日本初公開となる伊藤若冲《雌雄鶏図》と、保存状態に優れた北斎の団扇絵
- 歌川広重の花鳥版画と、完成までの過程を伝える貴重な下絵
- 歌麿、春信、英泉ら、よく知られた浮世絵師たちの“もう一つの顔”
35年ぶりに里帰りする、江戸の花鳥版画
本展の大きな魅力は、役者絵や美人画、名所絵ではなく、「花鳥版画」に焦点を当てていることです。
花鳥版画とは、花や鳥を主題にした浮世絵版画のこと。ただし、ここでいう「花鳥」は、植物と鳥だけに限られません。虫、魚、月、雪、流水、風、季節の草花など、自然の気配を広く含んでいます。
江戸の人々は、こうした花鳥版画を身近に飾り、日々の暮らしの中で季節の移ろいを楽しみました。春には花を、夏には涼しげな草花を、秋には月や雁を、冬には雪や鶴を。紙の上に季節を迎え入れるような感覚が、花鳥版画にはあります。
美術館で額装された状態で見ると、花鳥版画は貴重な名品に見えます。もちろん、それは間違いではありません。けれど、もともとは江戸の人々の暮らしに近いところにあった美でもありました。本展は、そうした「身近な美術」としての浮世絵を見直す機会にもなります。
花鳥版画の中心を担った歌川広重
展覧会名には「北斎、広重を中心に」とありますが、出品構成を見ると、展覧会全体の背骨をなしているのは歌川広重の花鳥版画です。
広重というと、やはり《東海道五十三次》の印象が強いかもしれません。雨の庄野、雪の蒲原、旅人が行き交う宿場町。そうした名所絵の広重は、あまりにも有名です。
しかし本展で出会う広重は、風景画家としての広重とは少し違います。
――月と雁。雪と椿。梅と鳥。竹と雀。
そこに描かれるのは、大きな風景ではありません。けれど、画面の中には確かに季節の空気があります。広重は、花や鳥をただ写すのではなく、余白や構図を通して、その場に流れる時間まで感じさせます。
象徴的な作品が、歌川広重《月に雁》です。月と、空を渡る雁。描かれているものは多くありません。それでも、夜の静けさ、秋の気配、空の広がりが伝わってきます。広重の花鳥版画を見るときは、描かれた花や鳥だけでなく、描かれていない余白にも目を向けたいところです。
画像:歌川広重《満月の下を飛ぶ雁》1830年代、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)※本展出品作《月に雁》とは異なる作品です。
日本初公開、伊藤若冲《雌雄鶏図》を見る
本展でまず注目したいのが、伊藤若冲《雌雄鶏図》です。
若冲は、広重や北斎のような浮世絵師ではありません。京都で活躍した絵師であり、鶏をはじめとする動植物の濃密な表現で知られています。だからこそ、浮世絵師たちの花鳥版画の中に若冲が現れることには、独特の面白さがあります。
本展で紹介される《雌雄鶏図》は、日本初公開となる作品です。さらに、世界で1点しか現存が確認されていない版画として紹介されています。
若冲といえば、極彩色で写実的な鶏のイメージが強いかもしれません。しかし、この《雌雄鶏図》には、少しとぼけたような表情の面白さもあります。広重や北斎の花鳥版画が、江戸の出版文化や暮らしの中で展開した表現だとすれば、若冲の鶏は、対象に迫る密度と奇妙な存在感によって、別の花鳥表現を見せてくれます。
広重の余白、北斎の構成、若冲の密度。その違いを比べることも、本展の大きな楽しみです。
葛飾北斎《露草に鶏》 —— 小布施で見る、もう一人の北斎
葛飾北斎の作品では、《露草に鶏》に注目です。
この作品は「団扇絵」です。団扇絵とは、団扇の骨に貼って使用するために作られた浮世絵版画のこと。つまり、ただ眺めるためだけの絵ではありません。夏に手に取り、風を起こすための実用品でもありました。
そこが、とても面白いところです。
美術館で見る北斎作品というと、どうしても「名品」として距離を置いて眺めてしまいます。しかし団扇絵は、本来、人の手の中にあったものです。暑い日に扇ぎ、風を感じ、季節を過ごす。その日常の道具に、北斎の絵があった。
しかも、団扇は使われれば傷みます。破れたり、色あせたり、捨てられたりする。だからこそ、団扇絵が良い状態で残ることには特別な意味があります。
《露草に鶏》は、そうした団扇絵の中でも保存状態が極めてよい一点です。露草の青、鶏の姿、涼しげな画面の調子。江戸の夏の実用品として作られたはずの美が、今なお鮮やかに残っていること自体が、この作品の大きな見どころです。
北斎ゆかりの地・小布施で、富士や波とは異なる北斎の静かな一面に出会える機会でもあります。
画像:葛飾北斎《露草に鶏と雛》1832年頃、メトロポリタン美術館蔵(Public Domain)※本展出品作《露草に鶏》とは異なる作品です。
江戸の人々も知らなかった、広重の下絵
本展でもうひとつ注目したいのが、歌川広重の下絵です。
浮世絵は、絵師が描いた絵をそのまま印刷するわけではありません。まず絵師が版元から依頼を受けて下絵を描き、その後、決定稿である版下絵が木板に貼り付けられ、彫師によって彫られていきます。
その過程で、版下絵は紙ごと彫り込まれてしまいます。つまり、下絵や版下絵が現存すること自体が、とても珍しいのです。
完成した浮世絵は、江戸の人々の目に触れました。しかし、下絵や版下絵は公開用の作品ではありません。本展で見る広重の下絵は、江戸時代の人々でさえ滅多に見ることのなかった、浮世絵制作の舞台裏だといえます。
たとえば《梅に四十雀/雪芦に鴛鴦》の下絵は、完成品の華やかさとは違う、制作途中の息づかいを伝えてくれます。花鳥版画を「きれいな絵」として楽しむだけでなく、それがどのように作られたのかまで見られる点も、本展の大きな魅力です。
歌麿・春信・英泉たちの“もう一つの顔”
本展は、広重と北斎だけを見ればよい展覧会ではありません。
第1章では、花鳥版画を手がけたさまざまな浮世絵師たちが紹介されます。
――鈴木春信、磯田湖龍斎、喜多川歌麿、栄松斎長喜、鳥文斎栄之、歌川豊広、渓斎英泉。
こうした絵師たちの作品が並ぶことで、花鳥版画が広重・北斎だけのものではなかったことが見えてきます。
たとえば喜多川歌麿は、美人画の印象が強い絵師です。しかし本展では《若松に鶴》や「生花」シリーズなど、花や植物を描いた作品を見ることができます。
鈴木春信は、錦絵の成立を語るうえで欠かせない絵師です。英泉は、美人画やどこか妖艶な画風の印象が強い絵師ですが、本展では花鳥版画の中で別の表情を見せます。
よく知っている浮世絵師に、知らない顔がある。これも本展の静かな楽しさです。
この展覧会で見えてくるもの
「ロックフェラー・コレクション花鳥版画展」は、北斎や広重の有名作を見に行く展覧会ではありません。
むしろ、いつもの北斎や広重のイメージから少し離れ、江戸の人々が暮らしの中で愛した“小さな花鳥風月”に近づく展覧会です。
歌川広重は、風景画だけの絵師ではありませんでした。月と雁、雪と椿、竹と雀の中に、季節の気配を描きました。
葛飾北斎は、富士山だけの絵師ではありませんでした。花や鳥を鋭く観察し、団扇という日常の道具の中にも鮮やかな美を残しました。
伊藤若冲、喜多川歌麿、鈴木春信、渓斎英泉らの作品は、花鳥表現が江戸の美術の中でどれほど豊かな広がりを持っていたかを教えてくれます。そして広重の下絵は、完成品の背後にある制作の舞台裏へと視線を導いてくれます。
――花と鳥、月と雪、団扇と短冊。
それらは大きな歴史を語るものではないかもしれません。けれど、季節を感じ、美しいものを身近に置きたいという気持ちは、時代も国境も越えて伝わっていきます。
江戸の小さな花鳥風月が海を渡り、ロックフェラー・コレクションとして守られ、35年ぶりに日本へ帰ってくる。
本展は、浮世絵の見方を少し静かに変えてくれる展覧会です。
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- 浮世絵師入門|江戸から明治まで、浮世絵を変えた絵師たち
北斎、広重、歌麿、春信、英泉らの位置づけを、江戸前期から明治までの流れの中で紹介しています。
開催概要・チケット・関連イベント
| 展覧会名 | ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン美術館所蔵 ロックフェラー・コレクション花鳥版画展 北斎、広重を中心に |
|---|---|
| 会場 | 北斎館 |
| 所在地 | 長野県上高井郡小布施町大字小布施485 |
| 公式サイト | https://hokusai-kan.com/exhibition2026-the_risd_museum/ |
| 会期 | 2026年8月8日(土)〜 2026年10月12日(月・祝) |
| 開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 最新情報は北斎館公式サイトでご確認ください。 |
| 入館料 | 一般1,800円、大学生・高校生800円、小中学生500円 |
| アクセス | 長野電鉄小布施駅から徒歩約12分。 車の場合は、上信越自動車道「小布施PAスマートインター」から約8分。 |
入館料や開館情報は変更される場合があります。来館前に北斎館公式サイトをご確認ください。
※本展は、2026年6月13日から7月26日まで三重県立美術館で開催された後、長野県小布施町の北斎館へ巡回しています。


