1.展覧会概要
毎年、奈良の秋の風物詩として奈良国立博物館で開催される「正倉院展」は、千年以上前の天平文化の息遣いを現代に伝え、多くの人々を魅了してきました。
正倉院宝物は、東大寺の毘盧遮那仏(大仏)に奉献された品々を中心に構成されており、世界でも類を見ない良好な保存状態を保ち、今もなおその奇跡を伝えています。
この展覧会は、単なる古美術展ではなく、「千年を超えて受け継がれる祈りの記録を静かに紐解く時間」であり、私自身も毎年、その開幕を心待ちにしています。
2025年秋に開催される「第77回 正倉院展」では、聖武天皇ゆかりの宝物を中心に、「祈り」「遊び」「香」「音」「光」という人間の五感を通して、天平の精神世界をたどる構成となっています。
2.コレクションの背景
正倉院宝物は、シルクロードを通じてもたらされた東西文化の結晶です。 その材質には、インドの象牙、ペルシャのガラス、中国の絹、そして日本の漆や木材などがあり、それぞれが見事に調和しています。宝物ひとつひとつが、当時の国際交流や信仰のかたちを映し出し、天平文化の広がりを静かに物語っています。
その始まりは、756年(天平勝宝8年)。光明皇太后が、夫である聖武太上天皇の七七忌に際し、天皇の遺愛品およそ650点と薬物60種を東大寺の盧舎那仏(大仏)に奉献したことに由来します。これが、今日まで続く正倉院宝物の起点となりました。
宝物は、正倉院に納められた場所ごとに大まかに次のように分類されます。
北倉には聖武天皇・光明皇后ゆかりの品々が、
中倉には東大寺の儀式で用いられた品々や関係文書、造東大寺司関係の資料が、
南倉には大仏開眼会に使用された仏具類などが収められています。
この区分は、奈良時代の当初から定められていたものではなく、明治以降の近代的な文化財調査の過程で再整理されたものです。長い年月の中で、修理や儀式のために宝物が倉から持ち出され、異なる倉に返納された例も多く見られるため、現在の配置が当初のままというわけではありません。
このようにして千年以上にわたり守り伝えられてきた宝物は、単なる古代の遺物ではなく、「祈りの記憶」そのものです。本展では、その記憶の糸をたぐるように、天平時代の人々が見ていた「世界のかたち」を追体験することができます。
このブログでは、今年の正倉院展の中でも特に注目すべき6つの名品を通して、「人の手が生み、祈りが宿ったもの」の軌跡をたどっていきたいと思います。
3.見どころ・作品紹介
木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)
北倉37 前回出陳年:2012年
木画紫檀双六局は寄木細工による双六盤で、聖武天皇が愛用したと伝えられています。当時の双六とは古い形のバックギャモンであり、紫檀や象牙、鹿角、竹など多様な素材を組み合わせ、盤面には唐草文や鳥の文様が精緻に象嵌されています。
これは単なる遊戯具ではなく、世界各地から集まった素材と技術が一堂に結集した「天平の知の遊び」といえるでしょう。
もし盤面に触れることができるなら、当時の宮廷に響いた笑い声や、駒の音までも感じ取れるかもしれません。
平螺鈿背円鏡 附 題箋(へいらでんはいのえんきょう つけたり だいせん)
北倉42 第11号鏡 前回出陳年:2013年
平螺鈿背円鏡 附 題箋は背面にコハクと夜光貝の螺鈿をちりばめた鏡で、光の角度によって青緑色の輝きを放ち、その間を埋めるように、トルコ石やラピスラズリの粒が精密に配されています。中国・唐で製作されたと考えられ、南海の夜光貝、ミャンマー産のコハク、イラン産のトルコ石、アフガニスタン産のラピスラズリが、シルクロードを経て唐で加工され、遣唐使によって日本にもたらされたと考えられます。
螺鈿鏡は破損し修復を受けているも多いですが、この第11号鏡については天平時代からの旧態をとどめている例の一つとのことです。
天平宝物筆(てんぴょうほうもつふで)
中倉35 前回出陳年:2010年(東京国立博物館)、1999年
天平宝物筆は管長56.6センチ、管径4.3センチという大きさで、野球のバットに近い威容を誇る巨大な筆です。752年(天平勝宝4年)、インド出身の僧菩提僊那が、この筆を用いて東大寺大仏の開眼法要を執り行いました。
その後、鎌倉時代の戦乱により大仏が焼失しましたが、1185年に重源上人によって再建される際、後白河法皇が再びこの筆を使用したと伝えられています。
千年以上の時を経た今も、その穂先は墨を含むかのような柔らかさを保ち、祈りの息づかいを感じさせます。書くという行為が、単なる記録ではなく「世界と心を結ぶ儀式」であったことを、この筆は静かに語りかけてくれるのです。
瑠璃坏 附 受座(るりのつき つけたり うけざ)
中倉70 前回出陳年:2012年
瑠璃坏 附 受座は非常に透明度の高い、淡い青を湛えたガラスの杯です。銀製の高台に支えられ、光を透かすと静謐な水のような輝きを放ちます。
このガラスは西方で作られたものとされ、遥かシルクロードを渡って東アジアへと伝えられました。この杯に注がれたのは、酒ではなく――祈りと美意識そのものだったのかもしれません。
そして、最後に残るのは光そのもの。時を越えてもなお変わらないのは、「人の心の透明さ」なのではないでしょうか。
黄熟香(おうじゅくこう)
中倉135 前回出陳年:2019年(東京国立博物館)、2011年
「蘭奢待(らんじゃたい)」の名でご存じの方も多いことでしょう。人の背丈ほどもある巨大な香木で、沈香の一種に分類されます。内部はほぼ空洞で、樹脂が濃密に沈着しており、千年以上の時を経ても香気を放ち続けています。その起源は、ベトナムからラオスにかけての山岳地帯とされます。
足利義政、織田信長、明治天皇らがその一部を切り取った記録が残り、ほかにも無数の切り取り痕が確認されています。それは「神聖なる香」であると同時に、古代の日本人にとって驚くほど身近な存在でもあったのかもしれません。
その香りは現在、東京・上野の森美術館で開催中の「正倉院 THE SHOW―感じる。いま、ここにある奇跡―」で体験することができます。
桑木阮咸(くわのきのげんかん)
南倉125 前回出陳年:2014年
桑木阮咸は丸い胴を持つ弦楽器で、ペルシャ起源の楽器をもとに中国で発展したものです。胴には朱や緑の彩色で花文が描かれ、かつては東大寺の法要で奏でられたと考えられています。
天平の音楽は、祈りの旋律であると同時に、異文化との交響でもありました。音そのものは失われても、弦を支えた木の温もりが、いまもその響きを思い起こさせます。
4.まとめ
6つの宝物は、それぞれが異なる素材と文化を背負いながらも、ひとつの答えに向かっているように思います。――「人はなぜ、美しいものを残そうとするのか」。
正倉院展は、古代の遺物をただ見せる展示ではなく、「人間の営みがいかに祈りと結びついていたか」を静かに思い出させてくれる場です。木と金属、香と音、そして光。それらはすべて、私たちの中に流れる「美を信じる力」を映しています。
千年の時を経てなお、これほど静かに、これほど強く語りかけてくる展示は他にありません。秋の奈良で、静かにその声に耳を傾けてみてください。
あなたなら、どの宝物に心を留めますか?
【コラム】館内の混雑について
ご存じの方も多いと思いますが、正倉院展は非常に混雑する展覧会の一つです。 人気の高さに加え、会期が短く、展示室の導線がやや複雑なことも理由のひとつです。
アドバイスとしては、順路にこだわらず、自分がいちばん見たいものを体力と集中力のあるうちに鑑賞することをおすすめします。
また、どの時間帯も混雑は避けられませんが、夕方以降――特にレイト割の時間帯直前は比較的落ち着く傾向があります。
レイト割とは
レイト割は、閉館前の入場を対象にした割引制度です。 月~木曜日は午後4時以降、金・土・日曜・祝日は午後5時以降の「日時指定券」に適用されます。
5.展覧会情報
特別展「正倉院展2025」
会場: 奈良国立博物館(奈良市登大路町50)
会期: 2025年10月25日(土) ~ 2025年11月10日(月)
開館時間: 午前9時 〜 午後6時(金・土は午後8時まで、入館は閉館30分前まで)
休館日: 会期中無休
観覧料:一般 2,000円(レイト割 1,500円)、高大生 1,500円(レイト割 1,000円)、小中生 500円(レイト割 無料)


