19世紀末、美術は「額縁の外」へ広がった
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの美術は大きな転換期を迎えていました。
フランスでは、印象派の画家たちが官展であるサロンとは別に、自分たちの作品を発表する場をつくりました。ベルリンやウィーンでも、保守的な美術制度や審査基準から離れ、新しい表現を受け入れようとする「分離派」の動きが生まれます。
この時代の画家たちは、もはや歴史画や神話画だけを描いていればよい存在ではありませんでした。都市の生活、身近な風景、夢や記憶、不安や欲望が、新たな主題として画面に入り込んでいきます。
さらに美術は、キャンバスの中だけに収まらなくなりました。
――本の表紙や挿絵、劇場の舞台装置、俳優の衣装、建築の内部装飾、壁画。
20世紀を目前にしたヨーロッパでは、絵画とデザイン、文学、演劇の境界がしだいに曖昧になっていきました。
その変化のただなかを生きたスイス出身の美術家が、カール・ヴァルザーです。
大阪中之島美術館で開催される「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー展」は、絵画や素描をはじめ、日本滞在中に描いた作品、書籍の挿絵と装幀、舞台美術まで、約150点によってその創作をたどる日本初の回顧展です。出品作品はすべて日本初公開となります。
カール・ヴァルザーという名前を初めて聞く人も多いでしょう。
けれど、彼の歩みをたどることは、知られざる一人の画家を発見するだけではありません。
印象派の次の世代が、絵画をどこへ運ぼうとしたのか。20世紀美術が前衛や抽象だけではない、もう一つの道を歩んでいたことを知る展覧会でもあります。
カール・ヴァルザーとは何者か
カール・ヴァルザーは1877年、スイスのベルン近郊にある町ビール(現ビエンヌ)に生まれました。
一歳下の弟ローベルト・ヴァルザーは、のちに著名な小説家・詩人となります。兄カールと弟ローベルトは、それぞれ絵画と文学の世界へ進みながら、書籍の表紙や挿絵を通して共同制作も行いました。
1899年、彼はベルリンへ移住します。以後、約四半世紀にわたってベルリンを活動拠点とし、絵画だけでなく、書籍の装幀や挿絵、舞台美術へと仕事を広げていきました。
1902年頃から書籍の装幀を手がけ、1904年には挿絵制作を開始します。弟ローベルトの著作のほか、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ゲオルク・ビューヒナーらの著書にも関わりました。
また、演出家マックス・ラインハルトらと協働し、舞台装置や衣装のデザインにも取り組みます。その舞台関係の仕事は、生涯で28件に及びました。
1925年には活動拠点をチューリヒへ移し、晩年は壁画や室内装飾の仕事で評価を高めます。1943年、66歳で亡くなりました。
彼はゴッホやモディリアーニのように、破滅によって神話化された画家ではありません。
絵画、出版、演劇、装飾という複数の現場を行き来しながら仕事を続けた、職能的で、多彩に活躍した美術家だったともいえるでしょう。
印象派の次の世代 ―― 絵画を壊さず、居場所を広げる
1877年生まれのカール・ヴァルザーは、世代でいえば、1879年生まれのパウル・クレー、1880年生まれのエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、1881年生まれのパブロ・ピカソらと世代が近く、フォーヴィスム、キュビスム、ドイツ表現主義が登場する時代を生きました。
ただし、彼はピカソのように形を解体する方向へは進まず、またマティスのように色彩を解放したわけでもなく、キルヒナーのように、身体や都市の不安を鋭く歪めて表現したわけでもありません。彼が選んだのは、別の道でした。
彼は絵画を壊すのではなく、絵画が存在できる場所を広げていきます。
絵画を本の中へ運び、舞台の上へ運び、室内空間や壁面へ運ぶ。さらに旅先で見た風景や祭礼、演劇を描き、異なる文化の記憶へとつなげていく活動を行います。
その意味で彼は、前衛の英雄というよりも、近代の視覚文化を横断した美術家と呼ぶ方がふさわしいでしょう。
では、そんな彼が若き日に身を置いた「ベルリン分離派」とは、どのような集団だったのでしょうか。
(画像)カール・ヴァルザー《アトリエの窓からの眺め》1908年頃
1908年ベルリン分離派展カタログ掲載図版 Public domain, via Wikimedia Commons
ベルリン分離派とは、何から「分離」したのか
「分離派」という名前だけを聞くと、何から「分離」したのか分かりにくいかもしれません。
彼らが離れようとしたのは、既存のアカデミーや官設展覧会が定める、保守的な価値観でした。
19世紀末のヨーロッパでは、各地で新しい表現を求める美術家たちが、従来の制度とは別の発表の場をつくり始めます。
フランスでは、印象派の画家たちが官展であるサロンとは別に、自分たちの展覧会を開き、ウィーンでは、クリムトらがウィーン分離派を結成し、絵画だけでなく、建築や工芸、装飾までを含めた総合的な芸術を目指します。
そしてベルリンでも、保守的な審査制度や展覧会運営に対抗して、1898年にベルリン分離派が結成されました。
当時のドイツでは、公的な展覧会の審査制度が強い影響力を持ち、伝統的な歴史画や重厚な写実表現が重んじられていましたが、そこへ、フランス印象派の光と色彩、象徴主義の神秘性、新しい都市生活を描く作品が流れ込んできます。
新しい表現を試みる画家たちは、既存の制度の内部で認められるのを待つのではなく、自分たちで展覧会を組織し、作品を発表する場所をつくり出しました。それが「ベルリン分離派」です。
ヴァルザーも1903年にここに加わり、若手の一員として作品を出品しただけでなく、のちには審査員も務めています。
つまり彼は、スイスの地方で孤独に制作していた画家ではなく、20世紀初頭のベルリンで、何が新しい美術なのかをめぐる議論が交わされていた、そんな場所の中心にいた人物でした。
第1章「絵画と素描」―― 優美さの奥にある、説明できない気配
展覧会の第1章では、ヴァルザーの画家としての歩みをたどります。
故郷での修業時代から、ベルリン移住後の象徴主義的な作品、さらに1910年代から1920年代にかけて、筆触や色面が大らかになっていく過程までが紹介されます。
彼の初期作品は、流れるような線と、抑えられた繊細な色彩が特徴です。
一見すると穏やかで、美しい。
ところが、しばらく見ていると、画面の奥に説明しきれない気配が残ります。
《バルコニーに立つ女性》では、女性は日常の一場面にいるようでありながら、現実の人物というより、物語の登場人物のようにも見えます。《隠者》や《森》には、象徴主義的な静けさと、何かが起こる直前のような緊張が漂います。
彼の作品を見て、エゴン・シーレの作品を連想する人もいるかもしれません。
しかし、シーレが身体をねじり、その内側にある不安や欲望を露出させたとすれば、ヴァルザーは不穏さを人物の身体ではなく、場面全体の奥へ沈めています。
彼の絵を見るときは、人物の表情だけでなく、人物と背景の距離、空間の使い方、線が視線をどこへ導いているかに注目するとよいでしょう。
――何が描かれているかよりも、その前後にどのような物語があるのか。
作品の中に見えない時間を想像することが、ヴァルザーの絵画を見る入口になります。
第2章「日本滞在」―― 1908年の日本を見つめた旅人
1908年にヴァルザーはドイツ人小説家ベルンハルト・ケラーマンとともに日本を訪れます。
横浜、東京、京都、伊勢などを旅し、そのなかでも長く滞在したのが、天橋立に近い京都府宮津でした。
当時の宮津では、遊興施設が立ち並ぶ茶屋町が栄え、歌舞伎の上演や、芸妓・舞妓による踊りも楽しまれていました。彼とケラーマンは宿から船で茶屋町へ通い、そこで見た人物や演目を作品に残しています。
会場には《入り江、日本》《花火》《祇園祭、京都・八坂神社》《京都先斗町の鴨川納涼床》といった、1908年に描かれた日本作品が数多く並び、さらに、歌舞伎だけではなく、複数の能役者を描いた作品も展示されます。
これらを、単なるジャポニスムとして片づけるのは少し違うと思います。彼が描いたのは、漠然とした「異国としての日本」ではありません。実際に彼が出会った人、見た舞台、歩いた町、眺めた海でした。とりわけ歌舞伎や能への関心には、舞台美術家として活動していた彼の眼差しも重なっていたのではないでしょうか。
――衣装の色、役者の姿勢、舞台と客席の関係。
彼は西洋の画家としてだけではなく、演劇空間をつくる美術家として、日本の舞台を見ていたのかもしれません。
この日本旅行は、のちに本の仕事にもつながっていきました。
ケラーマンは帰国後、『日本散策記』や『さっさ よ やっさ 日本の踊り』を刊行し、ヴァルザーはその挿絵を手がけています。旅先で見た風景や人々は、単なるスケッチにとどまらず、本の中で読者へ届けられる日本という国のイメージにもなっていきました。
第3章「挿絵と装幀」―― 本の中で働く絵
ヴァルザーの仕事は、独立した絵画作品だけではありません。
第3章では、弟ローベルトの『フリッツ・コハーの作文集』『詩集』『湖水地方』をはじめ、小説家のトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』やヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』などに関わる挿絵や装幀が紹介されます。
挿絵は、単独で完結する絵画とは役割が異なります。
文章をそのまま説明しすぎれば、読者の想像を狭めてしまう。反対に、文章から離れすぎれば、本の世界とつながらなくなります。
彼の挿絵には、物語の内容をすべて説明するのではなく、人物の仕草や場面の空気を短い線の中に残す感覚があります。
彼の絵画に漂う「物語の途中」のような印象は、本の仕事によって磨かれたものでもあるのでしょう。
(画像)
(左側)ローベルト・ヴァルザー著『タンナー兄弟姉妹』初版本表紙、1907年 表紙デザイン:カール・ヴァルザー
Public domain, via Wikimedia Commons
(右側)ローベルト・ヴァルザー著『助手』表紙、1908年 表紙デザイン:カール・ヴァルザー
Public domain, via Wikimedia Commons
第4章「舞台美術」―― 絵画が空間になる
最後の章では、ヴァルザーが手がけた舞台装置と衣装デザインを紹介します。
出品作には、『夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』『フィガロの結婚』『ラ・ボエーム』『カルメン』『ホフマン物語』など、演劇やオペラのための下絵が並びます。
ここでは、一枚の絵としての完成度だけを見るのではなく、その衣装を着た俳優がどう動くのか、背景の中に人物が立ったとき、どのような空間が生まれるのかを想像してみたいところです。
彼にとって絵画は、壁に掛けられた一枚だけではありませんでした。
――人が立ち、歩き、言葉を発し、物語が始まる場所。
その空間全体をつくることもまた、彼の美術だったのです。
忘れられた画家ではなく、もう一つの近代美術を見る
20世紀美術を振り返るとき、私たちはピカソのキュビスム、マティスのフォーヴィスム、カンディンスキーの抽象、キルヒナーやシーレの表現主義に目を向けがちです。
それらは確かに、美術史を大きく変えました。けれど、その強い光の周辺には、別のかたちで近代の視覚文化を支えた美術家たちもいました。
ヴァルザーのように、絵画を本、舞台、室内、旅の記憶へと広げていった美術家もいました。
彼は、前衛の中心で時代を破壊した画家ではありません。
その代わりに、絵画と文学、演劇、装飾、異文化の境界を行き来しながら、20世紀初頭の視覚文化を静かに支えました。
「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー展」が見せてくれるのは、長く忘れられていた一人の画家の再発見だけではありません。
――絵画は、どこまで広がることができるのか。
その問いに対して、彼は作品だけでなく、自らの生涯そのもので答えているように思えます。
開催概要
| 展覧会名 | スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー |
|---|---|
| 会場 | 大阪中之島美術館 4階展示室 |
| ホームページ | https://nakka-art.jp/exhibition-post/karlwalser-2026/ |
| 会期 | 2026年7月4日(土)~ 2026年9月27日(日) |
| 主な展示替 | 展示替えの案内はありません。 |
| 休館日 | 月曜日、7月21日(火) ただし、7月20日(月・祝)、8月10日(月)、8月24日(月)、8月31日(月)、9月7日(月)、9月14日(月)、9月21日(月・祝)は開館 |
| 開館時間 | 10:00~17:00(最終入場は16:30まで) |
| 観覧料 | 一般:1,800円(団体1,600円) 高校・大学生:1,300円(団体1,100円) 小学生・中学生:500円(団体300円) 障がい者手帳等をお持ちの方と介護者1名は当日料金の半額 ※団体料金は20名以上 ※本展は日時指定制ではありません。 |
| 作品リスト | こちらから |
| お問い合わせ | 大阪市総合コールセンター(なにわコール):06-4301-7285 受付時間:8:00~21:00(年中無休) |
大阪中之島美術館の混雑予想について
本展を開催する大阪中之島美術館では、2026年8月21日(金)から「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展」が開幕します。フェルメール展の開催後は、館内や周辺施設の混雑が予想されるため、カール・ヴァルザー展を落ち着いて鑑賞したい方は、8月20日までの来館をおすすめします。


